蒼い日差し-7
「男鹿の旅館で彼女に抱きついた時、俺は好きだと口走っていた。それは本心から出た言葉なんだが、欲情した時は誰だって言うだろう。だけど……」
この日になって気持ちがちがっていることに気づいた。
(彼女を愛している……)
「この時ほど切ない想いで女を見つめたのは初めてのことだった……」
憧れとか、性欲の対象とか、そんなものは飛び越えたような気持ちになっていた。
「惚れたってことか」
「そう、心底な……。でも、どうしようもないもんな。相手は女優だ。だからこそやりきれなかった」
青森から十和田湖まで定期バスが出ている。
八甲田の大自然に抱かれるように高度を上げ、圧倒的な緑の景観に言葉がなかった。車内にもさわやかな匂いが流れ込んでくるようだった。
途中、奥入瀬渓谷を散策することも出来たが、彼女は十和田湖まで行くことを望んだ。
「眺めているだけでいいわ……」
どこかしら沈んだ、物憂げな表情が差していた。花のような微笑みは消えていた。
「気分でも悪い?」
「ううん、大丈夫よ」
明るく笑ってみせた瞳に翳を感じたのは気にせいだっただろうか。
俺の頭を離れなかったのは『今夜の約束』である。
考えてみれば大変なことである。知らぬものがいないほどのスター、N・Yとセックスの約束をしている。相手は行きずりの男。
彼女の心の内奥を推し量ることはできないが、行きがかりとはいえ身を委ねるほどの義理はない。とっさに「明日……」と言ってしまったことを後悔しているのではないか。ならば拒絶してくれ。一方的に俺が言い寄ったのだ。応じる必要はない。
陽光を反射した湖面を見つめる後ろ姿が疲れた様子で、俺はそんなことを考えていた。
「さっきも言ったように、俺は彼女を愛していた。だから彼女が困ることはしたくない。だから何もなくてもいいと、そう思っていた。第一、彼女が俺に好意を持つはずはないからな。それなのに抱くことは彼女を冒とくすることになる……」
「案外向こうも本気だったりして」
茶化したつもりだったが声が掠れていた。私にはその夜の『コト』気になっていたのである。
「それで、青森に泊まったのか?」
「そのつもりだったんだが、ねぶた祭りの予約でどこも満室だったんだ。それで方々電話して、浅虫温泉という所でやっと空いている宿を見つけたんだ。意図したわけじゃないが、一部屋しか空いていなかった……」
「それは、すごいことだぞ」
私は起き上がると部屋の冷蔵庫からビールを取り出した。持ち込んだ酒はすでになくなっている。終わりにするつもりだったが飲まずにはいられなくなった。
諸岡のコップに注ぐと半分ほど一気に飲んだ。
「複雑な気持ちだったよ」
罪悪感のようなものを感じていた。彼女を脅して体を奪うわけではない。それなのに後ろめたい想いに捉われてしまった。
心を奪われるほどの彼女の魅力に胸を締め付けられながら、表裏一体となって肉体への欲望もある。それは異性に対する愛情の帰結として自然なことでもある。しかしあまりにも慌ただしい経緯と奇遇な成り行きに、彼女に相応の愛が芽生えているとは思えない。彼女が俺を愛しているとは到底思えない。
これでいいのかとためらいが起こっていた。思いやりだったのか、怖気づいたのか、いくつかの迷いが交錯していたのは確かなことだった。
(やめよう……)と思っていた。
「彼女を抱く理由がないんだ……」
諸岡は真面目な顔で言った。
「しかし、理由なんていらない時もある。いや、性欲だって理由になるだろう。理屈は通らなくても理由があるだけでいいこともある」
「何を言ってるんだ?」
「それで十分なこともあるってことだ。彼女だってそれを望んでいたかもしれない」
「あの、N・Yが?」
「彼女だって生身の人間さ」
諸岡はまたビールをあおった。