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「あの男の顔にヒットするデータはありませんでした」
五十嵐が不満な声で報告した。
「そうか。あの映像を撮った場所がどこの病院なのか、それに男の名前、これがわからないことには調べようがなさそうだな」
ズボンのポケットに片手を突っ込んだまま、北条は顎を怒らせて言った。
二人は署内の一室で、ほかの捜査員からの新たな報告を待っていた。
そんな頃、すぐそばの内線電話が鳴った。五十嵐が出る。
それは、是非とも北条に会って話がしたいという女性が来ていて、面会室に待たせてあるという内容のものだった。
すぐに北条と五十嵐がそこへ出向くと、少し派手めな恰好をした若い女性が、深刻な面持ちで会釈をくれた。
体の線が細いので、お腹が出ているのは妊娠のせいだと思われた。
彼女は沢田愛美(さわだまなみ)と名乗った。
「ひょっとして、沢田透の奥さんですか?」
五十嵐が尋ねると、女性ははっきり頷いた。
「突然のことで、お悔やみ申し上げます」
北条が丁寧に頭を下げると、次いで五十嵐がそれにならい、最後に沢田愛美が恐縮そうにぺこりとした。
妊婦だからといって特別扱いされるのを嫌うのか、パンティストッキングで覆った脚を太ももぎりぎりまで露出し、流行を意識した雰囲気がこちらにまで伝わってくる。
「我々に話というのは?」
北条は机の上で指を組んだ。
「じつはあたし、あの人の物を整理している時に、こんな物を見つけたんです」
沢田愛美は一枚のメモを刑事に見せた。そこに手書きの文字が並んでいる。
「これ、何かの役に立つでしょうか?」
北条は敢えて口を開かずにいた。
メモにある『木崎ウィメンズクリニック』という筆跡を、北条は脳裏に焼きつけた。
「見たところ、産婦人科病院の名前のようですが、あなたが通院しているクリニックではないのですね?」
五十嵐が確認する。
「はい。そんな名前の病院、あたしは聞いたこともありません。どうしてあの人がそんなメモを書いたのか、まったく心当たりがないんです」
「沢田透の仕事と関係があるんじゃないですか?」
「わかりません。あの人がどんな仕事をしていたのか、詳しくは知らされていませんでしたから」
こりゃあなかなか複雑だなと、五十嵐は咄嗟に口をつぐんだ。
「奥さん」
ここで北条が身を乗り出す。
沢田夫人の視線がそちらに向くと、
「ご主人がこれを、あなたに」
北条は懐から何かを出した。
それを受け取った途端、沢田愛美は片手で口を覆い隠し、大粒の涙で頬を濡らした。
込み上げてくる感情が涙腺を決壊させていたのだ。
北条が差し出した物、それは安産祈願のお守りだった。
しかしこれには北条が一枚噛んでいた。
沢田透が遺体で発見され、彼の妻が懐妊しているという報告を受けた時すでに北条は自分でお守りを購入し、いつかその人に手渡そうと決めていたのだ。
それを夫である沢田透が準備したのだと伝えれば、彼女の気持ちも少しは癒えるのではないかと考えていた。
机に伏せって嗚咽を漏らす沢田愛美。身ごもって幸せの絶頂にいたはずの彼女はこれからどうしていくのだろうかと、北条の胸が痛みを訴えていた。
頼んでもいないのに余計なことをしやがって──そんなふうに沢田透本人も今頃は軽口をたたいているに違いなかった。