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「おまえさん、もう煙草はやらないのかい?」
黒塗りのセダンの助手席に深々と座った大上次郎(おおがみじろう)は、運転席の男に雑談を持ちかけた。
「ええ、まあ、あれは体に毒ですからね」
車のエンジンを始動させながら、若手の沢田透(さわだとおる)がそれに応じる。
かかりはあまりよくないが、これでなかなか妙な愛着が湧いて、おなじ車をずっと手放せないでいるのだ。
「聞いたぞ、沢田、もうすぐ父親になるんだってな」
「さすがは大上さん、耳が早いですね。だから余計に吸えないんですよ。妊婦の前で二本指を立てようもんなら、離婚だ裁判だなんて騒がれかねませんから」
言いながら、やれやれという表情の中にも、どこか幸せを滲ませる余裕もあるのだった。
大上は皮肉な笑みを浮かべて、
「俺はもう三度も禁煙に失敗している。値上げしようが、体に毒だろうが、やめれんものはやめれん」
そのまま自分の煙草に火をつける。
やがて車は静かに走り出し、カーステレオから流れるラジオ番組の音声が、二人のくだらない会話を遮った。
パーソナリティーの女性は声のトーンを微妙に下げ、めりはりをつけた語り口で、ある事件についての記事を読み上げている。
「これって例の、神楽町で起きた通り魔事件のことですよね?」
先に食いついたのは沢田である。
対して年配の大上のほうは、
「まったく、このあたりも物騒になったもんだ」
鼻と口から白煙を吹き出す。
「犯人の目撃情報も乏しいっていうし、まあ、夜の11時なら無理もありませんね。被害者の名前、なんて言いましたっけ?」
「花井孝生、三十五歳の警備員だ。その日も通常通りに出勤して、事件現場となった道路の交通整理にあたっていたそうだ。そうしたらいきなり背後から、ズブリ、というわけさ」
「犯人はそのまま逃走して、被害者はそこで息絶えたというわけか。まだまだ働き盛りで将来があったはずなのに、遺族の人たちの気持ちを思うと、なんだかやりきれませんね」
「所帯持ちで、夫婦のあいだに子どもはいなかったらしいが、そこの奥さんがえらいべっぴんだって噂が流れている」
そこを右だと沢田に指示を出しながら、大上は喫煙の合間に上唇を舐めた。
「その話なら俺も知ってます。こんな時に不謹慎かもしれませんけど、若くして未亡人になると、ありもしない男関係の噂がいろいろと立つもんなんですよね」
「まさか、おまえさんもそのクチかい?」
「なにがです?」
「彼女の傷心につけ込んで、どうにかなろうって考えているんじゃないかと思ってな」
大上は備え付けの灰皿で煙草の火を揉み消した。
「やめてくださいよ、そういうの。うちのカミさん、あれでけっこう地獄耳なんですから」
沢田は大げさに口を尖らせて否定した。
その様子があまりにも可笑しくて、大上は低い声で含み笑いをした。