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果葬 ―かそう―
【その他 官能小説】

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―1―-1

 あの時、白雪姫が口にした真っ赤な毒林檎は、彼女の味覚にどのような疑念を抱かせたのだろう。
 ただ甘いだけの口あたりではなかったはずだ。
 小気味よい歯触りの果肉に仕組まれた、おそろしく陰湿な気配を感じながらも、咀嚼(そしゃく)を止めることができなかったのかもしれない。
 果たして彼女は自ら毒を摂取して、しんしんと降り積もる雪のような深い眠りに落ちたあと、思わぬ接吻で目覚めることになるのだ。
 けれども私にはわかる。彼女は最初から彼の唇と心を奪うつもりで、魔女の呪(まじな)いを利用したにすぎないのだと。
 色恋に狂った女々しい体を慰めることができるのは、セックスシンボル以外には考えが及ばなかったのだろう。
 ほんとうは男女の性交こそが毒だということを疑いもしない、なんて可哀想な姫なのかしら──。

 そんなふうに取り留めない妄想に耽ったまま、花井香澄(はないかすみ)は冷蔵庫の扉を開け放ち、その火照った頬に冷気の流れを感じていた。

 もうさっきからずっとおなじ姿勢をくずすことなく、左手に乗せた林檎の様子を眺めては、ごくんと生唾を飲み込む仕草に終始しているのだ。

 真っ赤に熟した果実は手に余るほど重たく、その内部に甘い蜜を分泌させているのが容易に想像できた。

 そしてまた喉が鳴る。

 二十八歳になったばかりの美しい女は、後ろ髪の結った部分を手でふうわりとなおし、ひと呼吸おいて、艶めかしく濡れる唇を林檎の表皮に重ねた。

 あっ、あん──と喘ぎたい気持ちがほんとうになると、息のかかるその接点からは、たちまち卑猥な吐息が漏れはじめる。

 そうしてただひと口、さくりと歯を立てて、あとはもう勢いにまかせて下顎をしゃくった。

 もうじき官能が舌にひろがっていくだろう。
 うっとりと瞼を閉じ、二度、三度と噛みほぐしていくと、そこから溢れ出す果汁が口のはじから垂れて、やがて下唇から顎の輪郭をつたって滴り落ちた。

 香澄は陶酔していた。

 体のあちこちが種火のようにくすぶり、あわよくば今すぐにでも慰めに先走りたいと思っている。女がこれでは始末が悪い。

 けれどもどうにもならない恨めしさが、あと一寸のところで理性をはたらかせているのだ。

 毒でもいいからとにかく楽になりたい、快楽が欲しい──。

 そんな欲求に促されて、ふた口目をかぶりつこうという時、冷蔵庫の半ドアを知らせるアラームが鳴った。

 はっと我に返る香澄。

 気づけば林檎の蜜が首から胸元までをぬらぬらと汚していた。
 それが自分の仕業だとわかると、喪服のおはしょりを丁寧になおして、ハンカチで胸元を拭った。

 いけない、買い忘れたものがあったんだ──。

 このところの眠れない夜のせいで痩せてしまった頬に、ふたたび体温が灯る。
 ひっそりと広い家の中は、女一人きりではなにかと心細く、懐かしい生活音さえ聞こえてこない。

 キッチンのとなりは十畳ほどの和室になっており、今は急ごしらえの仏間にさせている。
 あちらとこちらとを仕切る引き戸の隙間へ目をやれば、亡き人の遺影が無言のまま鎮座して見えていた。

「こんなことになってしまって、ごめんなさい、孝生(たかお)さん」

 ほとんど唇を動かさないで、香澄は遺影に向かって独り言をつぶやいた。
 そうしてかるく身支度を済ませると、線香の残り香をたなびかせながら家を出た。


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