に乃花-6
「精子がないのね?」
私の問いかけに彼は黙ってうなずいた。
「あれはまだ、奈保子と離婚する前の話だ」
遠い昔話を懐かしむように彼は語り出した。
二人がまだ新婚だった頃、性に奥手な私に気づいた彼は、どうにか私に目覚めて欲しくて、不器用なりにあの手この手を尽くしていたのだった。
セーラー服も、裸にエプロンも、深夜のアダルトショップに連れまわしたのも、すべて私のためだったらしい。
最初こそ私も遠慮していたのに、いつの間にか楽しんでいた部分もなくはなかった。
彼の色に染められたというのか、新しい自分に出会えたことを戸惑いながら受け入れた。
そうして女の部分を満たされた私は、今度は子どもが欲しいと彼に言う。
夫婦の共同作業がはじまった。
排卵日を予測して、それに合わせて彼は禁欲する。
男の禁欲がどれほど大変だったかと、彼は大げさに苦笑いした。
そんなの知らないと、私は冷たく返す。
「だけどなかなか子どもができなくて、そんなときにインターネットで不妊症のことを調べてみたんだ」
「私に内緒で、一人で病院へ行ったのね?」
「陰性のほうに賭けてはいたんだが、医師にはっきり言われたよ。さすがにショックだったな……」
情けない思いが込み上げてきたのか、彼は斜め上の空を見上げる。
そんなことがあったとは知らずにいた私は、どんな言葉をかければ良いのかわからない。
ずっと隠しておけばよかったのに、なぜ今になって話す気になったのかもわからない。
もう一度、私とやり直したいと思ったのだろうか。
「無精子だと診断されて自棄(やけ)になったとはいえ、それを理由に浮気したことは事実だ。奈保子には迷惑をかけたし、いろんなことを清算してきたつもりだよ」
「なによ、勝手に。それで私があなたのことを許すとでも思ったの?」
「そうじゃなくて、僕に教えて欲しいことがあるんだ」
彼は私の両肩を引き寄せて、真っ直ぐにこう言った。
「奈保子はどうして追われているんだ?」
「えっ?」
身におぼえのない話だった。
「君のことを捜しているという人物が僕を訪ねてきたんだ。なぜ、あんな連中が奈保子を捜しているんだ?」
「あんな連中って?」
「ホームレスだよ」
まただ──。
どうやら私は、ホームレスの人たちにかなり気に入られたようだ。
勤務先にあらわれ、自宅にもあらわれて、別れた夫の前にもあらわれている。
私に接触しようと思えばできるはずなのに、わざわざ距離をおいて私生活を観察しているようにも思える。
一体誰が、何のために、何をしたいのか。