い乃花-5
「わかりました。あとで確認しておきますね」
マスクがにっこりと動いた。
「そこのエレベーターを上がって、通路を渡ったところが産科病棟です。安産だといいですね」
打ち解けた感じで彼女が言った。
私を乗せたストレッチャーは迷わず分娩室を目指していた。
途中のエレベーター内でのスタッフ同士の会話で、ナイチンゲールの彼女の名字が『サクラ』だということがわかった。
よく見れば彼女は首からストラップを下げていて、そこに顔写真入りのネームカードがあった。
ほかのスタッフも皆そうだった。
佐倉麻衣(さくらまい)。素敵なフルネームの横の顔写真は、とうてい美人の要素しか見当たらない。
キャリアウーマンではないにしても、医療現場で働く女性たちの表情は生き生きとしていて、男性に負けないくらいの自信に満ち溢れていた。
私には奈保子、彼には篤史、彼女には麻衣。
名前でその人の人生が決まるわけではないけれど、命名という作業の重みを感じずにはいられない。
彼女のように自分に自信を持てる名前を、これから生まれてくる命につけてあげなくてはいけない。
そう思っていたとき、ふたたび陣痛におそわれた。
「いっ……たあい……い……うん……」
泣きそうなほど痛かった──というより少し涙が出た。
「小村さん、もう着きましたからね。大丈夫、大丈夫」
私をなだめる声は分娩室の扉をくぐって、次の瞬間にはもう厳しく指示が飛び交う室内に紛れてしまった。
私はそのまま分娩台へと移され、見たこともない医療機器に囲まれたまま両脚をひらいた。
新しい点滴を追加して、母体や胎内の心音を聴く計器のコードが、私の肌の上を這いまわる。
いよいよだ──。
この日に備えていろんなことを我慢してきた。
マタニティ教室ではヨガや胎教、食事制限のほかに、性生活のことまで学んだ。
体の芯まで甘く溶けてしまいそうなあのスキンシップも、大人の色恋話で性感帯を疼かせることも、妊婦である自分には無縁なものだと言い聞かせてきた。
子宮にかかる負担を軽減させるためには、なるべく遠ざけておかなければならなかったのだ。
そうして母親としての自分を磨きながら、十ヶ月間を明るく暮らしてきたつもりでいた。