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特に、何も……
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特に、何も……-5

 マッサージが終わりになる頃、中野さんの思い出話が始まる。お茶を飲みながらだと互いに冗談を言い合ったりするのだが、この時は過去のことばかりで私はほとんど聞き役である。しかも恋愛がらみの露骨な話も多い。何とか茶化して相槌を入れても、思い出にのめり込んでいる時はあまり笑わない。

「ぼくの初体験の話、聞きたい?」
「え?何の初体験ですか?」
「何のって、童貞を失った時さ。十九の齢だったな」
「聞きたいとは思いませんけど」
「ちょうど思春期の頃、赤線がなくなってね」
私に構わず話す。私の反応を窺ったり面白がったりする様子はない。

「アカセンって?」
「公認の、売春婦がいる所。昔はそういう場所があったんだ」
「公認なんて、信じられない」
「江戸時代だって吉原ってあっただろう」
「へえ、あれもそうなんですか?」
赤線とは許可を得た売春目的の飲食地域で、警察の地図に赤い線で囲われていたことからそう言ったらしい、と中野さんは言った。
「高校に入った年、千住とか玉の井とか、お金を持ってうろついたものだよ。一度は松戸まで行って、化粧の匂いがプンプンのオバサンに声をかけられたんだけど、勇気がでなくてね。動くたびにゆさゆさ揺れるボインでさ。圧倒されちゃったよ。帰り道、高校卒業したら絶対行くって決心したんだ。そしたら間もなく売春防止法ができて廃止さ」
「そんなにいろんな所にあったんですか?」
「うん。実際はその後も裏で営業してたようだけど、結局ぼくはそこの世話にはならなかったけどね」
 大学は国立のY大を出ているというから秀才だったようだ。

 大学一年の夏に初めて一人旅をした。
「訪れたK温泉の旅館で部屋付きの仲居に気に入られて、可愛がられたんだ。三十歳くらいかな。むちむちの大人だったな。齢を訊かれて、サバ読んで二十歳って言ったら、じゃあお酒飲めるわねって。夜部屋に来たんだよ。お酒持って。驚いたな」
「そういう話になってたんですか?」
「いや、突然だよ。それから二人で飲んだんだけど、ぼくはまだ弱くて酔っ払っちゃってふらふらでさ。笑いながらその人がにじり寄ってきていきなりキスされて、あとはされるがままさ。握られて、扱かれて初めはあっという間にどばっと出ちゃった」
「中野さん、セクハラですよ」
言いながら睨みつけても気にする様子はない。実際いやらしさを感じないのはこの人の性格なのか、私の職業的鈍感さなのか。

 利用者さんの中には『色ぼけ』の人がいる。男女にかかわらず、過去の性体験の記憶が露骨に表れて異性の職員に言い寄ったり、周囲もはばからず昔の経験を一方的にしゃべりまくる人もいる。
 お風呂の介助もする。車いすの人は二人で全面介助。自分で入浴できる人でもあがってくる時は脱衣所で待っていて介添えをすることもある。だから男性の性器も見慣れている。老人でも勃起して出てくる人もいて初めはびっくりして目を伏せていたけど今では平気になった。失禁、オムツ替えなどで清拭する時は手早くやらなくてはならないから気にしてはいられない。でも仕事に就いて間もない頃はまともに下半身を見られなかった。お風呂あがりに目をそむけてタオルを渡したりしていると、
「ほら、よく見てないと危ないわよ」
先輩に注意されたものだ。看護師さんには、
「子供の世話と思いなさい」って言われたけど、老人とはいえ大人だから初めは戸惑った。何とか慣れて自分のペースで仕事がこなせるようになるまで半年ほどかかった。

 中野さんはまだ思い出を辿っている。
「その仲居と夜明けまで抱き合ってたな。……夢みたいだったな……」
中野さんは目を閉じてふっと息を吐いた。
 そんな話がいくつもある。水商売の相手だけではなく、取引先の受付の女の子。社員旅行の時のバスガイド。同僚の奥さんとも関係したことがあるらしい。しかも同僚の家で一緒にお風呂に入ったという。
「すごい、大胆」
「酔ってたからなあ。それに奥さんが積極的で」
「またあ、相手のせいにしちゃって」
「いやほんとさ。そうじゃなきゃそんなことできないよ」
「ずいぶんもてたんですね」
「若い時はね。ふふ……」
時々、中野さんは思い出に生きているように思うことがある。

 それにしても、私なんて妄想の中のM君しかいない。中学のクラスに好きな男子はいたけど、もちろん片思いで、今は面影すらぼんやりしている。楽しい思い出なんてない。いずれ齢を取ったら思い出すことがあるのかな……。 


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