ウロボロスの繁殖-5
フロッケンベルクの三月は、まだ陽が沈むのが早い。
四時にはもう薄暗くなり、通りの外灯が輝きはじめる。子ども部屋に灯りをつけ少しした頃、玄関の開く音がした。
「戻りました!」
コートを脱ぐのももどかしい様子で、サーフィが駆け込んできた。
ずっと走って帰ってきたのか、白い頬はかすかに蒸気していた。
ネジを締めなおしたベビーベッドにシャルを寝かせ、ヘルマンは振り向いた。
「お帰りなさい。どうでしたか?」
「ええ、とても楽しゅうございました」
サーフィが柔らかく微笑む。
「それは良かった。シャルは……」
言いかけ、ふとヘルマンの声は止まった。
シャルが錬金術に興味を示し、さっきまでずっと実験機材で遊んでいたと言うべきだろうか?
神童とか天才とか、賢い子に対して人は褒め言葉を惜しまない。
それでも限度というものがある。
理解を超える以上の能力を持つ者には、一転して異端の烙印が押され忌避される。
赤子の頃のヘルマンを、乳母や後任の侍女たちが気味悪がって退けたように。
その点でシャルは、父親より確かに上手だった。
本性を隠し猫かぶりをして周囲の庇護をがっつり受けるという、当時のヘルマンができなかったことを見事にこなしたのだから。
「シャルも良い子でお留守番してくれたかしら?」
にこやかにベビーベッドを覗き込むサーフィ。
その後ろ姿を眺め、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
改めて思い知る。
サーフィが特別愛しい存在であるように、シャルだって『どうでも良くなんかない』のだ。
あの愛くるしい姿が、全て偽りの仮面だったと知ったとき、サーフィはどんな顔を見せるか……。
「あらあら、やっぱり。また脱走しようとしたのね?」
かがみこんだサーフィがほがらかな声とともに、布団の下からバターナイフを取り出す。
どうやらシャルはもう一本、更に布団の奥へ隠してあったらしい。
「は?」
唖然としたヘルマンの前で、サーフィは憮然とした顔のシャルを撫でながら言い聞かせる。
「言いましたでしょう?シャルはとってもお利巧さんですけど、一人で出歩くのはまだ早すぎますよ」
「ちょ……サーフィ!?知っていたのですか!?」
ヘルマンの焦り声に、きょとんとした顔でサーフィはふりむく。
「何をですの?」
「ですから、その……シャルが、標準より少々発育が早いというか……」
我ながら情けないほど言葉を濁し、ヘルマンは娘と妻を交互に見る。
ベビーベッドの中で、シャルがニヤリと悪戯っ子の笑みを浮べた。
「あなたもてっきり知っているとばかり……」
もしかして、知らなかったのですか?と、サーフィの気まずそうな表情が物語っている。
「シャルは外でお行儀良くしているぶん、二人きりになると、少しばかり暴れてしまうのですよねー?」
にこにことシャルに話しかけるサーフィに、恐る恐る尋ねる。
「驚かなかったのですか……?」
「ええ、確かに最初は少し驚きましたが」
氷の魔人の妻は、にっこり告げる。
まるで、この一言ですべて納得いくというように。
「何しろ、あなたの子ですから。何があっても不思議ではないでしょう?」
「……」
言葉を失い、ヘルマンは全身から力が抜けていくのを感じた。
「……すみません」
深い深い溜め息をつき、うな垂れた。
――すみません。君を少しでも疑ってしまって。