第7話-1
「痛って…」
洗面所で顔を洗っていた圭輔は、微かに呻き声を上げた。
鏡で自分の顔を覗き込みながら、指先で頬に触れると、そこには小さく裂傷ができていた。
頬を打たれた弾みで、綺麗に伸ばされた爪が掠ってできた傷だろう。
痛みは大してなく、その一点に微かな赤い痕を残すのみだ。
差し出がましい事をしたかもしれない。でも、自分が傍にいながら、みすみす傷付けられるのを見過ごせなかった。彼女を守りたかった。
自己満足かもしれないが、彼女の肌に傷をつけなくて良かった、と圭輔はふっと口元だけで微笑んだ。
そのままシャワーを浴びて、浴室を出たところで、ちょうど携帯が鳴り出した。
髪から水滴を滴らせながら、慌てて携帯を手に取ると、やはり思った通りの人物からだった。
『英里……』
圭輔は、柔らかく彼女の名前を呼んだ。
秘めていた思いを告げてから、この名前が今まで以上に特別で愛おしいものに感じられる。
心が定まったせいか、先程の激情が嘘のように鎮まり、今は穏やかだった。
『……。』
電話口は、無言だった。圭輔も何も言葉を発しなかった。
何も語らずとも、彼女と繋がっていると思うだけで何故か彼の心は落ち着いた。
聞こえないはずの彼女の微かな息遣いが、聞こえてくるような気がする。
『……圭輔さん、突然すみません』
おずおずと、英里がようやく話を切り出した。
『いいよ、英里ならいつでも掛けてくれたら嬉しい』
メールすらあまりくれない彼女から、電話をしてくることなんて滅多にないことだった。
圭輔は携帯を持ったまま立ちあがり、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
『あと、今日はごめんなさい、その……』
すっかり恐縮し、 消え入りそうな程小さな声だった。
『何言ってんだよ、俺の方が迷惑掛けたんだろ。ごめんな』
『…あ、謝らないで下さい。私、圭輔さんが庇ってくれて、嬉しかった……』
その瞬間、英里の顔が思い浮かんだような気がして、圭輔の胸は高鳴った。
『英里を、守りきれなくてごめん』
本当は自分も同じく批判される立場なのに。
『だから、謝らないで下さいって。…あの、その……』
言い難そうに、言葉を濁す。彼女が何を言いたいのか察した。
『…いいよ、返事は急がないから』
さっきまで会っていたのに、それでも今すぐ会いたいと思ってしまう。
そんな込み上げる気持ちを抑えるように、圭輔はぐっと片手のビールを飲み干した。
『……ありがとうございます。圭輔さん、おやすみなさい』
英里はほっとしたように控えめな声でそう告げ、電話を切った。
圭輔は電話が切れてもしばらくそのままの姿勢で、彼女のことを想った。
―――感情のままに、自分の真情を吐露してしまったあと。
抱き寄せた腕の中の英里は、戸惑いの表情を浮かべて、自分の顔を見つめていた。
ほんのり赤みを帯びた頬が愛らしく、額にそっと口付けると、彼女は恥ずかしげに目を伏せる。
そのまま、しばらく抱き合っていた後、英里は圭輔の腕から逃れると、浅くお辞儀をして、エントランスゲートの中へと早足で歩いて行った。
するりと、自分の腕から離れていく温もりを淋しく思いつつも、圭輔も言葉を発さずに彼女を静かに見送った。
家に戻った彼女が、母親からきつく咎められはしないか心配ではあったが、さすがに家まで押し掛けるのは憚られた。
英里の姿が完全に視界から消えると、圭輔も自宅へと戻った。
アパートの一室の、見慣れた自分の部屋。
先程まで彼女と一緒に過ごしていた分、狭い部屋がいつもより少し広く感じられる。
いずれ、もっときちんとした形で、挨拶に行くつもりだったが、結果的に、あまり望ましいとはいえない―――むしろ最悪な状態で、関係がばれてしまった。
英里へのプロポーズの言葉も、もっと気が利いた台詞で告げたかったが、あの時は込み上げる感情を抑え切れなかった。
両親の離婚で敏感になっている時に、ますます頭を悩ませるような事を言ってしまうのはまずいと思っていたが、彼女が恋しくて、愛しくて、どうしようもなかった。
本当なら、今すぐにでも彼女と一緒になりたい。一緒に暮らしたい。
いつも、自分の隣にいて、笑顔を見せて欲しい。
一週間寝食を共にして、もう彼女が傍にいることが当たり前のようになってしまった。
だが、英里はまだ学生だ。
自分だって、彼女と同じ21歳の頃は、将来についての明確なヴィジョンもないまま、ただ漠然と日々を過ごしていた。
だから、彼女に答えを急がせるつもりはなかった。
もう一度、傷跡にそっと指先を滑らせる。
もし、彼女から色好い返事を貰えたとしても、2人が真に祝福される日はくるだろうか。自分は、英里が傍にいてくれるのならば、周囲の誹謗中傷など一向に構わないが、繊細な彼女は哀しむだろう。そんな様子を見るのは少しつらい。
(…俺が弱気になってちゃいけないな)
顔を上げると、鏡の中の自分と目が合った。視線がぶつかる。
すっと、顔を引き締めて、もう1人の自分と向き合い、自信をつけるかのように不敵に微笑んで見せた。そうやって、自分を鼓舞する。
もう迷いを抱く段階はとっくに過ぎた。
今の関係から、新しい関係への変貌を願っているのだ。
決定的な一言を告げてしまったからには、後戻りは許されない。前へ進むしかない。
彼女を守る力を得るために、認められるように、ただ突き進むまでだ。
英里の笑顔を思い浮かべると、体の奥底から力が漲ってくるような気がした。