第7話-3
「……でね、その先輩がほんと口うるさくて……」
正面に座る、彼女の愚痴に、圭輔は静かに頷いた。
藤森絢子は圭輔の大学生時代の同級生で、同じサークルに入っていたこともあり、親しくしていた仲間の内の一人だった。
最初は、互いの近況やとりとめのない話をしていただけだったが、酒が回ってくると、徐々に彼女の言動は理性を欠き始めていた。
余程仕事のストレスが溜まっているようだ。
圭輔はただ黙って、適度に相槌を打ちながら彼女の話を聞いていた。
目鼻立ちの整った彼女の頬が淡く染まり、瞳は潤み始めて、大学時代よりも洗練された、大人の女性としての色香を帯びていた。
「でさ、そろそろいい年なんだから、早く結婚しろとか、完全にセクハラだっつーの」
「……おい、時間、いいのか?」
時刻は12時に近付き、さすがにまずいと思った圭輔は、そう切り出すと、
「いいわよ。明日は休みだし。それより、まだ飲み足りない…」
「そんだけ飲めば十分だろ」
圭輔は苦笑を浮かべながら、そう切り出すと、
「何かさ、圭輔ちょっと変わったわね。落ち着いたというか。今もあんまり飲んでないし」
とろんとした熱っぽい瞳で、綾子はゆっくりと圭輔の顔を見上げた。
「そりゃ、お互いもう社会人になってだいぶ経つしな。それに、俺は一応教師だから」
「別に今学校や生徒の監視の目があるわけじゃあるまいし、大袈裟ねぇ」
さらにカクテルを追加注文しようとしている彼女の手を取って、
「ほら、もうやめとけって」
「あたしはまだ飲むんだから、一人で帰ればいいじゃないのぉ…」
「そういうわけにはいかねえだろ……」
「じゃあさ、二人で朝まで一緒にいる、ってどう?」
「ばーか、何言って…」
「半分、本気なんだけど」
一笑に付そうとした圭輔の言葉を遮り、彼女は挑発的な視線を向けた。
圭輔に向けられた彼女の瞳に満ちている、期待と熱情。鮮やかな、赤い唇。
しばしの間、無言で、視線だけが交差する。
ぴりぴりとした空気、張り詰めた緊張感。
彼女はこの感覚が大好きだった。
狙った獲物が自分に落ちる瞬間。陶酔するほど、病み付きになる。
だが、彼はそれを受け流すかのように、
「ったく、そういうこと言うのは、好きな男相手だけにしとけよ。帰るぞ」
相変わらず相好を崩さないままで、圭輔は立ち上がった。
(……何よ、つまんないの)
相手がこの調子では、駆け引きもできやしない。
一気に気が抜け、彼に気取られぬよう、彼女は低く溜息を漏らした。
(興醒めもいいとこだわ)
正直、彼女は自分自身に対して自信があった。
その源は、常に自分を磨く努力をしてきたことに裏打ちされている。
並大抵の女には、負ける気なんて更々ない。
そうなると、やはりある程度相手に要求する条件や、理想も高くなる。
圭輔は、性格は穏やかだが、男らしい部分もしっかり持ち合わせており、頼りがいを感じさせる。何より見た目の良さは申し分なく、自分の相手として相応しい。
大学時代から、少なからず好意を寄せていた。
それなのに、この目の前の男には、どれだけそれらしい仕種を見せても全くといっていいほど手応えが無い。彼は、自分の思いに気付いていないのか、気付いていて敢えて躱しているのか。
彼女の胸の裡に、黒い感情が俄かに湧き上がった。
「あのさ、この前圭輔の家に来たあの子、高校の生徒?」
「ん?何だよ、いきなり。まぁ、卒業生だから元生徒。…ほら、早く行くぞ」
立ち上がりかけた圭輔は、それだけ答えて、店を出るよう促す。
「生徒に手ぇ出しちゃって、まずいんじゃないの?」
何気なく彼女がそう言った直後、圭輔の動きがぴたりと止まった。
「……あの子は、そんなんじゃないから」
「ふーん。でもさ、普通、卒業した子がさぁ、わざわざ教師の家にまでおしかけて来る?圭輔はそんなつもりなくても、あっちは気があるかもしれないんだから、面倒なことになる前に突き放した方がいいんじゃない?」
面白がって、話を続けると、刹那、圭輔の眼が鋭くなる。
その険しさに、絢子は身を硬くした。
今までに見せたことのないような、底の見えない冥い瞳の色。
「悪い、俺、先に帰るわ。金、ここに置いとくから」
「え、あっ、ちょっと…!」
無言で彼女の静止を振り切り、圭輔は一度も振り向かないまま店を後にした。
一人店に残された彼女は、ぼんやりとグラスを傾けた。
「ちょっとからかっただけなのに…圭輔ってば、ほんと変わったわ」
あんなにあからさまな態度を取るなんて、何かあると公言しているも同然だ。
大学時代の彼は、こんな些細な事でむきになるような人間ではなかったのに。さっきの態度は、情けないほどの余裕の無さだ。
どうも、あの子については触れてはいけない部分だったらしい。
彼の奥にある、決して踏み込ませなかった領域に居る、あの子。
(あたしは駄目だったのに、どうしてあの子なの?)
グラスの縁を爪先で、弾く。
キィン、と、涼やかな音が響いた。
―――だからこそ、掻き乱してやりたくなる。