I-7
「さあ、出来ましたよ!」
作業を始めて一時間半。林田が漸く、出来上がった麺汁を茶の間に持って来た。
井戸で冷やした麺汁を汁椀に注ぎ入れ、雛子に渡した。
(何これ……)
雛子は見た目に驚いた。泥水の様に濁った汁は、とても食欲をそそる物には見えない。
「こうやって、素麺を汁によく絡めて食べて下さい」
「あ、はい……」
雛子は促されるまま、素麺を一箸掬って麺汁に充分絡めた。
「どうぞ、一気に」
沈殿物が素麺に付いて見た目が悪い。が、林田がじっと様子を窺っている。
(しょうがない……)
雛子は、一気に口に入れて啜った。
「どうですか?」
想像した味と違う──炒った胡麻の香ばしさと、いりこの優しい味が口の中に広がった。
「美味しいです……もっと魚臭いのかと思ってました」
「いりこは、頭と腸を取り除いてから炒るんです。そうすると、魚臭さも無くなりますから」
「へぇー」
雛子は感心しながら、素麺を次々と口に運んで行く。初めての味わいに、ご満悦の様子だ。
そんな様子に、林田も安堵して微笑んでいる。
「男の人が料理をやるなんて、やっぱり意外です」
それは、夕飯もあらかた終わり、酒を呑み始めた頃である。雛子が思い出した様に、昼間の話を蒸し返した。
「まあ、私も独り暮らしが長いので、自然と身に付いたんですよ」
「やっぱり、大学生になってからですか?」
「そうですね。あの頃は友人と三人で、アパートに住んでました」
「さ、三人で!?」
雛子の派手な驚き様に、林田は小さく笑うと、遠くを見つめる目になった。
「お互いに貧乏で……日々の食い物にも事欠く有り様で」
懐かしそうに笑う眼は、哀苦に満ちていた。
「──ある日、友人の一人が帰りが遅くなりましてね」
林田の声音が、微妙に変化した。
「彼は特高に止められてしまったんです。しかも、運が悪い事に、ドフトエフスキーの原文書を隠し持っていた」
「と、特高って……」
特高警察がもたらす、人々への恐怖は半端無い。反政府的な輩に対して彼等の採る、酸鼻たる行いは凄まじいばかりか“非国民”として、家族にさえ累を及ぼした。
「不可侵条約を交わしているのだから、ロシア文学は禁書ではないと訴えても、奴等は聞く耳を持たず、友人を“アカ”として扱いました。
来る日も々拷問まがいの尋問が繰り返され、ようやく釈放されたのは三ヶ月経った真冬の夕方です」
林田の声は、いつしか震えていた。