アールネの少年 2-8
「あれを彼が……?」
「そうだ。すごいだろう」
シェシウグル王子は子供のように笑った。
信じがたい現象ではある。だがエイは直感的に、それを真実と受け入れていた。
空気が濃度を増して光の屈折率が変わり、わずかに向こうが歪んでいる。
通常なら人が感知できるレベルの変化ではなかったが、エイの鋭い五感は、その力の“形”を正確に読み取った。
「翼……」
知らず呟いた言葉に、シェシウグル王子が反応した。
「何だ?」
「鳥の翼みたいだ」
「みたい? みたいも何も、鳥だろう」
王子は怪訝そうにそう言ったが、エイは聞こえなかったように黙り込んだ。実際、言葉は頭に入っていなかった。ただ、見入っていた。圧倒的な”力”、その美しい姿に。
砦はその力の前に、なすすべもなく崩壊していく。
粉塵をまきあげる瓦礫の、はるか上空にただ一羽、漆黒の鳥がとどまっている。
力。破壊。災い。
……滅び。
……形をなしたひとつの、滅び。その徴。
エイは言い知れぬ畏怖とともに、そんな連想に慄いた。
さほど時間はかからなかった。
朦朦と立ちのぼる粉塵の向こうで、ほどなく崩壊は完全に止まった。
砦は積み上がった瓦礫の山と化し、右往左往するアールネ兵の姿が煙る視界に見え隠れしている。
「よし!」
うまくいった、と王子は拳を軽く突き上げた。
「……いいぞ、戻れアハト」
上空のアハトに手を振って合図する。だが、アハトは反応しなかった。
「アハト? どうした」
漆黒の鳥態が、ひらひらと、ひとひらの燃えつきた灰のように舞い落ちる。
そう、明らかに彼は落下していた。高度のコントロールを失っている。
「くそっ、どうなっている!」
シェシウグル王子は色を失って、木陰から身を乗り出そうとした。
エイは慌てた。まだアールネの兵がうろついている。
「ま、待ってください」
エイは彼の腕をつかんだ。頭の隅でちらりと、なぜ自分が自国の兵から身を隠そうとするのだろうかと考えながら。
王子は上空をにらみながら、何をされているのか飲み込めていない様子で、ぐい、と腕を引き抜こうとした。それをエイが引っ張り返す。
しばらくもみ合ってから、ようやくシェシウグル王子がエイを見た。
「離せ。アハトが落ちた」
途方にくれたような顔で、彼はそう訴えた。
「僕も見ていました」
エイは必死にそう言った。シェシウグル王子の目を見つめながら、ただひと言。
それ以上なんと言えばよいのか思いつかなかったためだったが、シェシウグル王子が見る間に落ち着きを取り戻していくのがわかった。
彼は無言のまま、何事もなかったように力を抜き、元の身をひそめる体勢に戻った。
※※
一刻も経った頃、ようやくアールネの兵士の姿が見えなくなった。ロンダ―ン軍追撃に加わったか、丘の方まで撤退したのだろう。
「こっちだ」
シェシウグル王子は迷わず一点を指して森に分け入った。
「わかるんですか?」
エイは素直に驚いた。あの混乱のさなか、彼はアハトの落下地点を正確に見届けていたというのだ。色だけならば、闇夜の鴉そのもののアハトを。
感心するエイに、彼は振り返りもせず当然のように言った。
「あいつは俺のツミだ。無事に一族のもとに戻す責任がある」
エイはなぜか、その言葉に胸をつかれた気がした。
「……責任」
彼は知らず、小さく呟いた。シェシウグル王子の耳には届かなかったが。
ほどなくして、低木の茂みの間に黒い鳥は見つかった。
羽根をたたみ、ぐったりと枝葉に埋もれて丸くなっている。墜落した鳥の、硬直した骸をエイはとっさに連想したが、すぐにはっきりと呼吸につれて胸がふくらむのがわかった。生きている。
シェシウグル王子が茂みをかきわけ、両手に乗る大きさの小柄な猛禽をひょいと引っ張り出した。
「おい。おい、アハト!」
呼びかけながら軽く背を叩くが、アハトは小さく羽根を震わせたのみで、目を覚ます気配はなかった。
「……こりゃ、完全に落ちてるな」
シェシウグル王子はアハトの羽根を開かせ、可動域に合わせて軽く動かした。
「ケガはない、と」
異常はないようで、彼はほっと小さく息を洩らした。
「こいつらでも、力を使い過ぎると目を回すらしい。話に聞いてはいたが、実際見るのは初めてだ」
それにしても、と彼はあたりを見回した。
「このまま放置してたら、ツミの一族ともあろうものが、その辺のアライグマに食われるところだぞ。せめて人間型に戻れというんだ」
「でも、持って運ぶにはこちらの方が助かります」
彼は外套を外すと、袋状に丸めてアハトをくるみこんだ。
鳥はまだ平気な方とはいえ、生き物にじかに触れるのは苦手なのだ。
「移動するつもりか? アテはあるのか」
「……大したアテじゃありませんが。何とか休める場所までは行けると思います」
黒い鳥のアハトは、人間の姿のときとはうって変わって脆く感じられた。力をこめたら、簡単にぽきぽきと壊れてしまいそうだ。
エイはシェシウグル王子の心配そうな気配を感じながら、ひどく大事に彼を抱え込んだ。
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