アールネの少年 2-6
好機、なのだろうか。エイの脳裏にそんな言葉がよぎった。
シェシウグル王子を手土産に自軍に帰れば、アールネにとって望ましい結果だろう。人質としてであっても、その首であっても。
エイの手は、知らず剣の柄を探してさまよった。いつも腰に吊るされている剣は、武装解除されていてそこにはない。
空転した手に、彼はなぜか安堵を覚えた。
剣はある。シェシウグル王子の腰に佩かれた、ロンダ―ン製の諸刃の直刀が。
奪うのは簡単なことだ。徒手であっても、ねじ伏せるのは容易だろう。……だが、彼はそこから意識的に目をそらし、武器がないから何もできないと自分に言い聞かせた。
先ほど自分を襲ったのが何者か、彼にはわかっている。
むろん、口止めや邪魔者を消す意図もあるにはあるのだろうが、おそらく、リアのつけたあの副官には、エイに生きていられては困る明確な理由がある。
生きていると、本国すなわちリアに伝わっては困る理由が。……つまりその事実が、副官が命じられたであろう、リアの望みではないから。
手柄を立てて帰っても、表面上はどうあれ、誰にも喜ばれまい。
別に、それはそれでもよいのだ。動揺するようなことではない、いつものことだ。
問題は、自分が自軍に、アールネに、帰りたいかどうか。
彼は、自身の内をどれほど探っても、その望みがほんのひとかけらも浮上してこない事実に苦笑した。
結局、彼の手は軽く空を掴んだのみだった。
脳裏をよぎった考えを追い出して、エイはとんとん、と幾度か垂直に跳ねてみた。
やはり違和感がある。ただ、落ち着いてみれば、悪い方向の変化ではなかった。肩関節の可動域が広がり、膝の吸収や足首の柔軟性も以前より改善されている。
自由度が増した分、先程は振り回されてしまったが、慣れれば問題なく制御できるだろう。
先刻は自分のことで頭がいっぱいだったが、瞬間の衝撃が去ってみると、彼の中に残ったのはひとつの感嘆と疑問だった。彼はそれを、無性に誰かに話したい衝動にかられた。
「あの、」
近場にいる唯一の人物に呼びかけようとして、彼ははたと言葉に詰まった。
こういう場合、何と呼ぶのが適切なのだろうか。考えてみれば、エイは正式に彼の名を聞かされていないのだ。
「……シェシウグル王子」
数秒迷った末、エイは結局そう呼んだ。アハトや兵士が王子と呼んでいるのだから、人違いということもあるまい。
案の定、彼は否定せず、いたって普通に振り返った。
「面倒くさいから、シウでいいぞ。うちの家族はそう呼んでいる。俺もエイと呼べばいいんだろう?」
エイは迷った。彼の言う“うちの家族”とは、ロンダーン王と王妃、妹のミルハーレン王女のことだろう。普通の”家族”とはだいぶ違う。
彼は聞こえないほど小さく、シウ、と口にしてみて、そのあまりに親しげな響きに困惑を覚えた。この呼び方を続けるかは保留にしておこうとひそかに決めて、彼は続けた。
「……あの彼は、すごい戦士ですね。まだ若いようなのに」
「ん? ああ」
シェシウグル王子はきょとんとした顔をしてから、すぐに、得意げに笑った。
「歳でいえば”若い”以前だがな。ツミの一族は幼いうちから武芸を叩き込まれるんだ。強いぞ」
「ツミの一族……」
「うちの庭番を務める一族だ」
「うち、って」
彼の家とはつまり、大国ロンダ―ンの王宮のことだろう。
ずいぶんと気軽な言い回しにあきれるエイをよそに、シェシウグル王子は一転、難しい顔になった。
「しかし、すまんな」
「え?」
いきなり謝罪されて、エイは反応できず固まった。
「アハトのことだ」
彼は声をひそめた。
「普段から愛想はないが、今日はいつにもまして機嫌が悪い」
「ああ……あれ、機嫌が悪かったんですね」
「普通ならああまで食ってかかりはしない。体調でも悪いんじゃないか」
「確かに、顔色が悪いような気はします」
アハトの、日焼けの痕跡のない、透けるような白い面を思い浮かべてエイは頷いた。だが王子は首を横に振った。
「いや、顔色はいつもと変わらん。だが子供は熱を出すとぐずるものだろう?」
「いくつの子の話ですか……」
彼の言いぐさに、エイはアハトの去った方角を気にした。せいぜい二つ三つしか歳の変わらない少年に赤ん坊扱いされて、機嫌良くはいられまい。
「なんにしろ、お前を嫌っているわけじゃないんだ。気にしないでやってくれ」
「はあ」
一応、敵国の捕虜なわけで、嫌われていても別に気にしないのだが……と首をかしげつつ、彼はあいまいに頷いた。
「むしろ気に入ってるんじゃないかと俺は思う」
腕組みしながらの言葉に、エイは目を瞠った。
「普段は俺の命令なんか、ほとんど聞かないんだ、あいつは。あの状況で、不殺の命が届くとは正直思わなかった」
「え?」
あやうく聞き流しかけたが、今、気になることを言わなかっただろうか。エイはあわてて聞き返そうと口を開いた。
「待って下さい、シェシウグルおう……」
「シウ」
「……シウ。なぜ僕を、」
最後まで言えなかった。