H-7
「ちょ、ちょっと!」
旅程の大変さは自分も知っている。そうではなく、何故、此処に来たのか──雛子は理由を知りたい。
「なんだ?この臭いは」
突如、三朗は話を途中で止めて、眉をひそめて鼻を鳴らし出した。その途端、雛子の顔色が変わった。
「ああ!お味噌汁」
慌てて台所に引き返すと、火に掛けた味噌汁の鍋が、怒った様に湯気を吹き上げていた。
「あち!」
直ぐに火を止めるが、味噌汁が煮上がってしまって台無しだ。
「うん、ちゃんと掃除してるようだな」
鍋の前で立ち尽くす雛子の耳に、奥から三朗の声が聞こえて来た。
「ちょ!何してんのよ」
見れば、勝手に上がり込んで家の中を探索しているではないか。
「こっちに座っててよ!」
更に覗こうとする三朗をなんとか制止させ、ちゃぶ台の前に座らせた。
「何をそんなに怒っとるんだ?」
「来るなら連絡ぐらいしてよ!こっちだって準備が有るんだから」
会えた事が嬉しいはずのに、突然さと理不尽な立ち振舞いが娘を苛立たせる。
生徒の事は何でも解っていたのに、娘の事は解らない──父親であるが故の盲目さ。
「ごめん下さい」
再び玄関から声が聞こえた。今度は女性の声。雛子は、三朗を置いて玄関口に立った。
「今晩は、先生」
現れたのは公子の母親で、手には布巾を被せた器を抱えている。
「公子から、先生のお父様が来てるって聞いたんで……」
布巾を取ると、黄鶏(かしわ)の炊き込みご飯が、どんぶり鉢一杯に入っていた。
「こんなに……」
「沢山炊いたからお裾分けだ。お父様と食べて下せえ」
公子の母親が、半ば押し付ける様にどんぶり鉢を手渡す。雛子の掌に、鉢の温かさが伝わって来た。
「有難うございます!」
遠ざかる母親に、雛子は何度も々、お礼を言った。
茶の間から耳を欹て、やり取りを聞いていた三朗は一人、微笑んでいた。
「お父さん。さっき、お父さんを連れて来てくれた女の子のお母さんが、これをお父さんにって」
戻って来た雛子が、どんぶり鉢をちゃぶ台の上に置いた。
「美味そうだ。東京じゃあ喰えないご馳走だな」
にこやかに応える三朗の様子に、雛子はバツの悪そうだ。
「他に、じゃがいもの煮付けと味噌汁も有るわよ」
「そうか。じゃあ、久しぶりに親子水入らずで夕飯とするるか」
「分かった。直ぐに準備するから!」
日もとっぷりと暮れた頃、親子はようやく、打ち解ける事が出来たようだ。