七-3
ときにつぐみは、何かを思い出して顔を上げた。
「深海さん、まだ熱が」
「それならだいぶ治りました」
「いけません。すぐに薬湯の支度をします。食事もまだでしたね」
つぐみは部屋を見渡して、脱ぎ散らかした自分の服を拾い集めていく。
「あっちを向いていてください」
ここにきてもまだ恥ずかしい気持ちが残っているのだ。
つぐみは紳一の背中を見ながら服を着ると、そのまま台所へ向かった。
女らしい人だと紳一は感心していた。
僕は森咲つぐみという女性に、惚れ薬でも飲まされたのだろうか。
熱が出ているせいもあるだろう。
僕が愛しているのは春子ただ一人だ。
同時に別の女性を好きになるはずがない。
紫乃が遺してくれた春子と思い合っているというのに、森咲先生のことが気になっているとでもいうのか。
人と人の縁というものは、何て残酷なのか。
それは誰かを愛せば誰かを傷つけてしまう、両刃の剣なのだ──。
自分の心に触れながら、春子の顔を思い浮かべる紳一であった。
*
思うように足が動かなくなった春子は、仕方なしに自転車を押して歩いていた。
父とつぐみの二人を家に残して出かけたのだが、行くあてがあるわけでもなく、今頃父と先生はどうしているのだろうかと考えていた。
初夏の陽気で日焼けしたその顔に不安が過る。
森咲つぐみから漂ってくる魅力は、同性の春子から見ても明らかに優美であった。
いくら父が熱で伏せっているといっても、そんな彼女に世話をしてもらえば、何も起こらないわけがない。
お父さん──。
春子は胸騒ぎをおぼえた。けれども今帰ったとしても、もしもその場を目撃してしまったら、自分はきっと耐えられない。
そんなことよりも、もっと父のことを信じてあげようと思った。
ふたたび自転車をこぎ出すと、喫茶店の前を通りかかった。
春子は喫茶店の窓から店内を窺い、はっと声を上げた。
その店は未成年にも平気で酒を提供するということもあって、学生の出入りは一切禁止されていた。
それでも大人を気取りたがる年頃の高校生たちが、こっそり出入りすることもめずらしくはない。
そういった雰囲気の喫茶店である。
しかし春子がそこで目にしたのは学生なんかではなく、もっと春子に近しい人物だった。しかも二人いたのだ。
白髪混じりの無精髭を顎いっぱいに生やしてむずかしい顔をしているのは、昨日、春子を犯そうとしていた佐々木繁だ。
そんな彼と向かい合った席に座っている人物は、吸うつもりのない煙草を灰皿に置いたまま、佐々木繁に向かってしきりにしゃべっている様子だった。
「お父さん……」
春子は呟いた。そこにいたのは、春子の亡き母親である紫乃が深海紳一と再婚する前の夫、つまり春子と血のつながった父親、九門和彦だったのだ。
この二人が顔を合わせるのも、ずっと久しかったに違いないと春子は思った。
春子が生まれる前から、九門家と佐々木家には良い間柄がつづいていた。
生前の紫乃の器量の良さは、隣近所どころか町の誰もが一目置いた美しさだったものだから、繁も紫乃に対しては特別に気前が良かった。
そんな中、紫乃は春子を授かり、佐々木夫妻が子宝に恵まれなかったせいもあってか、彼らは春子のことを我が子のように可愛がった。
しかしあるときから和彦の態度が急変して、どういうわけか、佐々木家との関係も少しずつ疎遠になっていった。
そうして和彦と紫乃は離婚し、妻と娘を置いて和彦が出て行くかたちで縁が切れたのである。
母と娘二人きりの暮らしは、けして楽なものではなかった。
それでも紫乃の人柄と器量の良さが良縁を招いて、間もなく深海紳一と出会い、結婚した。
三人での暮らしがはじまり、人あたりの良い紳一は佐々木家や近隣の人たちともうまく交流をはかり、紫乃や春子に対しては余るほどの愛情を尽くした。
新しい父親だというのに春子はすぐに紳一に懐いて、紫乃もそんな二人のことを微笑ましく見守っていた。
何もかもが順調に運んでいたかに見えたある日、紫乃が突然の病に倒れ、薄命のうちにその短すぎる生涯を終えたのだった。
告別式には和彦の姿もあったのだが、紳一や繁と交わす言葉も少なく、ただ春子とだけは笑顔を交わして、「大きくなったな」と言葉をかけていた。
しかしその目には玉のような涙が浮かび、紫乃を亡くした喪失感なのか、あるいは春子の気持ちに触れたのか、和彦の表情はしだいに悲しみに暮れていった。
春子が母親との最期の別れを告げたあの日の様子を見ても、その後、佐々木繁と九門和彦が接触することなど考えられない。
それが今こうして二人が会っているということは、よっぽどの事情があるに違いない。
春子は余計な詮索をした。
春子は実父の顔を見た。次いで佐々木繁の顔を一瞥する。
ここで春子はあることを思い出した。
それは先日の強姦事件のことである。
あの女子生徒をおそったのは佐々木繁ではないのか。
そして次に狙われたのが自分だったのだとしたら、未遂のまま彼があきらめるとは思えない。
いかにも女には見境のない面構えをしているあの人ならやりそうなことだと春子は思った。
不意に春子の肩をたたくものがあった。
空を仰ぎ見ると、どんよりと曇った空から冷たい雨が落ちてきて、春子と自転車と地面とを濡らしていった。
雨宿りをするよりも家に帰ったほうが無難だと考えて、最後に和彦の横顔だけを見届けると、小雨の中を自転車で帰った。
風向きによっては、雨の匂いに混じって畑の肥やしの臭いも漂ってくる。
梅雨入りしたのだと春子は思った。