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ひとしずくの排卵
【その他 官能小説】

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 その夜はいつになく気温がぐっと下がり、草の根まで凍みるほどの肌寒さとなった。
 どちらからともなく寝床をともにしたいと声をかけ、しかし夕べのように体をむしり合うことはせず、ただ温もりを交わして抱き合ったまま眠る紳一と春子。

 誰にも踏み込めないその聖域で、たった一度だけ唇を重ねた。

 そして翌日、紳一は熱を出して寝込んでしまった。
 その日は工場も学校も休みだったから良かったが、森咲つぐみとの食事の約束がある日でもあった。

 紳一は春子に電話をかけさせて、今日は食事に行けなくなったと断ってもらった。

「お父さん、大丈夫?」

「うん。季節の変わり目ってやつさ。春子は平気か?」

「私なら大丈夫。そんなことより、食欲はあるの?」

「何か作ってくれるのか。ありがとう。少し眠るから、あとでよろしく頼む」

「私をお嫁さんにしたくなるかもよ?」

「それはどうかな」

「もう。ずっとこの家に居座ってやるんだから」

 春子はいたずらな笑顔を見せて、紳一はまんまとその笑顔に愛しさを募らせるのだった。

 春子は一生懸命に紳一を看病した。
 見返りなんていらないのだ。そばにいられるだけで良かった。

 紳一が寝息をたてるのを見届けると、春子は自分の部屋で勉強に勤しむのだった。



 どれくらい眠っていただろう。紳一は美しい歌声を聴いて目を覚ました。
 戸の隙間をくぐり抜けてくるハミングに耳を澄ませてみると、ふしぎと体が癒されていくのがわかる。

 紳一はふたたび瞼を閉じて、春子の歌声に聴き入っていた。
 そこへ呼び鈴が鳴った。

「ごめんください」

 春子が玄関に出てみると、そこには買い物袋を提げた森咲つぐみが立っていた。
 紳一が熱を出して寝込んでいると電話で知り、それならと思い立って、お見舞いついでにいろいろな食材を買い込んで、紳一のために食事を作りに来たというわけだ。

「わざわざすみません」

「お父さんの具合はどうかしら?」

「熱は少し下がったみたいですけど、まだ何とも。どうぞ上がってください」

「おじゃまします」

 春子は複雑な思いでつぐみを家に通した。

お見舞いに来ただけにしては、森咲先生はいつにも増して上手にお化粧をしてきている。
とてもきれいで、いい匂いがして、子どもの私では適わないところがたくさんある。
それに比べて私ときたら、嫉妬することしかできない──。

 春子はだんだん惨めな気分になってきた。

「お台所、借りるわね」

「お父さんの様子は見ないんですか?」

「眠っているところにおじゃましたら、悪いわ」

 ほんとうは紳一に会いたくて見舞いに来たつぐみであった。そこのとは春子にもよくわかる。
 それなのにつぐみは紳一と春子の分の食事を作り終えると、紳一に会おうともせずにそのまま帰ろうとしたのだ。

お父さんと森咲先生を二人きりにさせたくないけど、ここまでしてもらっておいて、このまま先生を帰すのも失礼だわ──。

「私、これから美智代と約束があるんです。それで、先生にお父さんのことをお願いしたいんですけど」

 とっさに口から出た嘘だった。

「それは、私に留守番をして欲しいということなの?」

「先生に居てもらえるとすごく助かります。だめですか?」

 つぐみはしばらく春子の目を見つめたまま黙っていた。

「いいわ。友達との約束は大事だものね」

 つぐみは穏やかに笑った。



 つぐみの手料理の味加減はとても優しく、春子は絶賛の言葉を何度も口にした。

「春子ちゃんもお世辞が上手ね」

 つぐみは上品な笑顔を見せた。

「私にも春子ちゃんみたいな妹がいたらいいわね。勉強もできるし、可愛いし」

「こちらこそ、森咲先生みたいにきれいな姉が欲しいです」

「恋人はいらないの?」

「好きな人ならいます」

「異性交遊は校則で禁止されているけれど、女の子はやっぱり恋をしないとね。春子ちゃんならきっとその人とうまくいくわ」

「そうだといいんですけど。先生はどうなんですか?」

 二人はともに紳一のことを思い浮かべながら、しかしそれを悟られないようにしていた。

「私はずっと片思いだし、それになかなか勇気が出せない性格だから」

 つぐみの声の雰囲気から、先生の好きな人はやっぱりお父さんなんだ、と春子は察した。


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