六-3
その夜はいつになく気温がぐっと下がり、草の根まで凍みるほどの肌寒さとなった。
どちらからともなく寝床をともにしたいと声をかけ、しかし夕べのように体をむしり合うことはせず、ただ温もりを交わして抱き合ったまま眠る紳一と春子。
誰にも踏み込めないその聖域で、たった一度だけ唇を重ねた。
そして翌日、紳一は熱を出して寝込んでしまった。
その日は工場も学校も休みだったから良かったが、森咲つぐみとの食事の約束がある日でもあった。
紳一は春子に電話をかけさせて、今日は食事に行けなくなったと断ってもらった。
「お父さん、大丈夫?」
「うん。季節の変わり目ってやつさ。春子は平気か?」
「私なら大丈夫。そんなことより、食欲はあるの?」
「何か作ってくれるのか。ありがとう。少し眠るから、あとでよろしく頼む」
「私をお嫁さんにしたくなるかもよ?」
「それはどうかな」
「もう。ずっとこの家に居座ってやるんだから」
春子はいたずらな笑顔を見せて、紳一はまんまとその笑顔に愛しさを募らせるのだった。
春子は一生懸命に紳一を看病した。
見返りなんていらないのだ。そばにいられるだけで良かった。
紳一が寝息をたてるのを見届けると、春子は自分の部屋で勉強に勤しむのだった。
*
どれくらい眠っていただろう。紳一は美しい歌声を聴いて目を覚ました。
戸の隙間をくぐり抜けてくるハミングに耳を澄ませてみると、ふしぎと体が癒されていくのがわかる。
紳一はふたたび瞼を閉じて、春子の歌声に聴き入っていた。
そこへ呼び鈴が鳴った。
「ごめんください」
春子が玄関に出てみると、そこには買い物袋を提げた森咲つぐみが立っていた。
紳一が熱を出して寝込んでいると電話で知り、それならと思い立って、お見舞いついでにいろいろな食材を買い込んで、紳一のために食事を作りに来たというわけだ。
「わざわざすみません」
「お父さんの具合はどうかしら?」
「熱は少し下がったみたいですけど、まだ何とも。どうぞ上がってください」
「おじゃまします」
春子は複雑な思いでつぐみを家に通した。
お見舞いに来ただけにしては、森咲先生はいつにも増して上手にお化粧をしてきている。
とてもきれいで、いい匂いがして、子どもの私では適わないところがたくさんある。
それに比べて私ときたら、嫉妬することしかできない──。
春子はだんだん惨めな気分になってきた。
「お台所、借りるわね」
「お父さんの様子は見ないんですか?」
「眠っているところにおじゃましたら、悪いわ」
ほんとうは紳一に会いたくて見舞いに来たつぐみであった。そこのとは春子にもよくわかる。
それなのにつぐみは紳一と春子の分の食事を作り終えると、紳一に会おうともせずにそのまま帰ろうとしたのだ。
お父さんと森咲先生を二人きりにさせたくないけど、ここまでしてもらっておいて、このまま先生を帰すのも失礼だわ──。
「私、これから美智代と約束があるんです。それで、先生にお父さんのことをお願いしたいんですけど」
とっさに口から出た嘘だった。
「それは、私に留守番をして欲しいということなの?」
「先生に居てもらえるとすごく助かります。だめですか?」
つぐみはしばらく春子の目を見つめたまま黙っていた。
「いいわ。友達との約束は大事だものね」
つぐみは穏やかに笑った。
*
つぐみの手料理の味加減はとても優しく、春子は絶賛の言葉を何度も口にした。
「春子ちゃんもお世辞が上手ね」
つぐみは上品な笑顔を見せた。
「私にも春子ちゃんみたいな妹がいたらいいわね。勉強もできるし、可愛いし」
「こちらこそ、森咲先生みたいにきれいな姉が欲しいです」
「恋人はいらないの?」
「好きな人ならいます」
「異性交遊は校則で禁止されているけれど、女の子はやっぱり恋をしないとね。春子ちゃんならきっとその人とうまくいくわ」
「そうだといいんですけど。先生はどうなんですか?」
二人はともに紳一のことを思い浮かべながら、しかしそれを悟られないようにしていた。
「私はずっと片思いだし、それになかなか勇気が出せない性格だから」
つぐみの声の雰囲気から、先生の好きな人はやっぱりお父さんなんだ、と春子は察した。