五-1
学校の休み時間、春子と美智代は教室の後ろのほうでひそひそ話をしていた。
「昨日のことは、お父さんには内緒にしてあるから。美智代も絶対に誰にも言わないでね」
「わかってる。夕べはお父さんにお説教されて、昼間どこに行っていたのか訊かれたけど、あのことは言わなかったよ」
「でもまさか、うちの学校の生徒がおそわれるなんて、何だか怖いね」
「うん。危ないのは都会だけだと思っていたけど、私たちも気をつけないといけないね」
美智代が言ったあと、春子はトイレに行くと言って教室を出た。
閉まりの悪いトイレの扉をどうにか閉めて、春子は和式トイレにしゃがんだ。つうんと漂う臭いに眉が歪む。
おしっこを出すと、陰部がひりひりと痺れた。貞操を捨てた夕べの出来事が思い出される。
父にされていたように、自分の指で触ってみたくなった。
けれどもどうやって触ればいいのかわからない。
お父さん──。
自分の手を裏から表から眺め、どうしようか躊躇っている。
叱られるかしら──。
悩んだ末に、太ももの内側に触れてみた。
陰部に近い部分をゆっくり撫でて、より近くへと指を忍ばせていく。
そんなとき、授業開始の鐘が鳴ったので、春子は仕方なく教室に戻った。
四時限目の授業がはじまる。
*
「ちょっと出てきます」
工場での午前の作業を終えた紳一は、昼休みの時間を利用して、紫乃の墓参りに行くことにした。
今日は紫乃の命日である。
汚した作業着のまま切り花を抱え、工場からほど近い墓地へと向かう。
道端の雑草に混じって生える紫陽花は、花もなく葉を広げているだけだった。
墓地に着くとバケツに水をはり、線香の煙を浴びながら紫乃の墓前に向かった。
どうやらそこには先客がいるようだった。
何となく見覚えのあるその顔に声をかけようか迷っていると、礼服姿のその男がこちらに気づいて声をかけてきた。
「お久しぶりですね、深海さん」
「九門さんとこうして会うのも、紫乃の告別式以来ですかね」
お互いの腹の内を探り合うような低い声でにじり寄っていく。
「娘は……。いいや、春子は元気でやっていますか?」
「春子はもう九門さんの娘じゃない。僕の大切な家族だ」
「僕の娘だろうが、深海さんの娘だろうが、そんなことでやり合う気はありません。ただ、少しだけ忠告しておきたかったのです」
「忠告だなんて、脅かさないでください」
「養鶏場の佐々木繁、あの人には気をつけておいたほうがいい」
「何が言いたいんです?」
「あと、血のつながらない男と女が一つ屋根の下で暮らしていれば、間違いが起こらないとも限らない」
「僕と春子のことか?」
「ようするに、春子と血がつながっているのは誰なのか、ということなんです」
「九門さんの言いたいことはよくわからないが、僕は春子の父親です。そして紫乃は僕の妻だ。あなたとはもう何の関係もない」
紳一は感情的になることもなく、胸を張って相手の目を見据えたまま言った。
なるほどな、といった感じで不適な笑みを浮かべる九門和彦(くもんかずひこ)は、もう一度紫乃の墓前に手を合わせて、その場を去った。
その後ろ姿にどこか暗いものを背負い込んでいるような気がして、紳一は苦い顔をした。
九門和彦と紫乃が離婚した理由について、紳一は何も知らない。
だが、何とも食えない男だ、と彼の風貌を見ながら思うのである。
あらためて紫乃と向き合った紳一は静かに目を閉じ、夕べの春子とのことを許して欲しいと願った。
君がいなくなった今、僕には春子しかいないんだ。
それだけはわかってくれ──。
この分だと夕刻には風が涼しくなりそうだなと、紳一はひたいに手をかざして晴天を見上げた。