番外編 夕立-1
遠くで雷鳴がおこった。窓の外を見ると、さっきまで晴れ渡っていた空に雨雲が垂れ込めている。
「あ――服!」
あわてて立ち上がり、ベランダへ向かう。大気には湿った匂いが混じり、夕立の到来を予言していた。なんだか質量すら持っている気がする夏の熱気につつまれて、汗がどっと噴き出す。
朝から干していた洗濯物は、すでに乾いていた。ハンガーから外しては部屋の中に放り込んでいくと、ちょっとした服の山が完成した。
いよいよ降り出した雨を眺めながら、のんびりと洗濯物をたたむことにした。
タオルに、ハンカチ――稲光が走る。雲の上にいるであろうひとたちのことを考える。
靴下に、下着――もしかしたらこの雨は、あの人の帰りを速めてくれるかもしれない。
カットソーやショートパンツを畳み終えると、最後にとっておいた、大きなシャツにとりかかる。相変わらず、あのひとは飾り気のない白いシャツを好む。皺を伸ばそうと布地を撫でると、いつもその下にあるぬくもりに自然と意識が向かってしまう。
午後の気だるいひと時。窓の外の豪雨のせいで、いつもよりも『ひとり』が気になる。
今頃、なにをしているかな……。今朝がた、行先も告げず、なんだか秘密めかした表情で出て行ったきり、帰ってこない。
「早く帰ってくればいいのに」
その時、コンコンという音がして、危うく悲鳴をあげそうになった。窓の方を見ると、ずぶぬれになった飃がガラス窓をたたいている。相変わらず、彼は玄関から出入りするという事をしない。まず窓を試して、鍵がかかっていた場合は玄関を使うといった具合だ。いつものことだけれど、ちょっと呆れながら窓を開け、畳んだばかりのバスタオルをかけてやった。
「おかえり」
「うむ」飃はうなずき、優しくキスをしてきた。
体を放すと、まず耳がぴくんと動く。
「待って!!」危険を察知したわたしは、飃の手を引いて急いで風呂場に連行した。「ここでぶるぶるしちゃダメ!」
「何故だ」不服そうに飃が言う。濡れた時の『ぶるぶる』を邪魔されるのが嫌いなのだ。
「畳んだばかりの洗濯物が目に入らないの?」私は飃を風呂場に押し込み、しっかりと戸を閉めてから、満を持してGOサインを出した。
「はい!どうぞ!」
答えの代わりに、水が跳ね散らかるものすごい音が、中から聞こえてきた。
飃は機械から吐き出される風を嫌うので、彼が一緒の時にはクーラーや扇風機は使えない。夕立でだいぶ気温は落ち着いたとはいえ、真夏の午後を無風で過ごすのはつらい。私は飃が風呂から出てくると、アイスを食べて納涼することにした。
洗濯物を終えた私は、さっきまでの仕事にもどっていた。机の上にうずたかく積まれた紙の束と、普段めったに使うことが無いパソコンに向かっていると、上半身裸のままの飃が後ろから覗き込んで、聞いた。
「さくら、それはなんだ?」
「これは、記録というか、覚書というか……」
椅子を回転させて飃と向き合うと、彼は真剣なまなざしをパソコンの画面に注いでいた。私の書いた文章の中に、哀しみや絶望の兆しを探しているのだと、わたしにはわかった。今でも、あの戦いのことが話題に上ると、こういう表情をする。彼は無意識に私の肩を抱いていた。何かから守ろうとするかのように。
「辛くはないか」
「うん」
正直、百パーセント辛くないかと言われればウソになる。でも、これが自分にとって必要なことだという事は、痛いほどわかっていた。あまりにも多くのものが失われてしまった。頭で理解できても、心がそれを拒むことがあまりにも多い。自分の身の内だけにとどめておくには、あの戦いはあまりにも……大きすぎる。
「カジマヤとか、神立や、青嵐さんにも手伝ってもらってるの。私が知らない話もたくさんあるでしょ?」そう言って、紙の束を指す。「みんなパソコン使わないから、手で打ち直さなきゃならないんだよね……つらいと言えば、それくらい」
冗談めかして笑ったけれど、あながち間違いじゃなかった。なにしろ、ものすごい流麗な草書体の覚書を送ってくれる人もいる。そういうのは後で飃に手伝ってもらうつもりだ。
「あ、アイス――」そうこうしているうちに、手に持ったアイスがいつの間にか溶け出して、腕の方まで流れてきてしまっていた。ティッシュを取りに行こうと立ち上がった私の手を、飃は目にもとまらぬ速さで捕まえる。
つい一瞬前まで、イナサさんからのメモを熱心に読んでいたと思ったのに!
「ちょ、垂れちゃう……」言いかけて、息をのんだ。
飃の瞳がいたずらっぽく光ったから。
彼は私の腕を高く上げると、垂れたアイスの軌跡をなぞって舐め挙げた。それはもう、ゆっくりと、淫靡に。
頬がかーっと熱くなる。思わず取り落としそうになったアイスはあっけなく奪われてしまった。
「さくら……」耳元でささやかれて、足から力が抜けそうになる。
「ア、アイスが食べたいなら、冷蔵庫にまだ――」上ずった声で言葉をひねり出す間にも、飃の手は私の背中にまわっていた。ぐっと抱き寄せられ、噛み付くようなキスに囚われる。熱い舌が口内をまさぐる――まるで味わうように。
「――っ!」
冷たいものを胸元に感じて思わず逃げようともがく。すると、飃はますます深くキスしてきた。
「この味は嫌いじゃない」やっと口を放すと、熱っぽい声でつぶやいた。
「あ、あげるから……」やめて、なのか、もっとして、なのか、自分でもわからない。
飃は低い声で笑うと、唇で首から胸元までをなぞった。さっき胸のあたりで感じた冷たいもの――飃がわざとそこにアイスを落としたのだ。今、ひんやりした雫は臍のあたりまで伝っている。
「も……やだぁ……」思わず泣きそうな声がでる。