警鐘-2
小さなボディーガードを味方につけて、二階の廊下まで出た。人の気配はなく、出窓から差し込む外光は真夜中の月光みたいに頼りない。
そんなことを気にしていると、マサムネの姿はすでに廊下のずっと先にあった。
よく目を凝らせば、いちばん奥の部屋のドアが開いていた。今は空室になっているのだろう。
猫一匹分のドアの隙間から、マサムネは部屋の中へと吸い込まれていった。
連れ戻さなきゃ──。
私もそこまで行って、一応ノックしてから入室した。
「失礼します」
部屋の中は案外暖かく、いきなりダブルサイズのベッドが目に飛び込んできた。シーツはかなり乱れており、人の息遣いが聞こえるみたいに生々しい。
そこで物音が聞こえた。きっとマサムネがいるのだと思って、私はベッドの向こうをのぞき込んだ。
「マサムネ。出ておいで」
呼びかけて、次に私は絶句した。空室だと思っていた部屋に人がいた。特徴のある変わった服を着た若い女性だった。
「ごめんなさい。返事がなかったんで、誰もいないと思って」と、私は彼女のことをじっと見つめた。
背中を壁にあずけて、細長い両脚を大きく広げたまま、彼女は一言も発してはくれない。
どこか様子が変だと思ったのも束の間だった。私はまたしても絶句して、両手で顔を覆い、指の隙間から彼女を窺った。
変わった服を着ていると思っていたのは、じつは服ではなかった。彼女の裸身に張り巡らせてあるのは、いくつもの結び目をつくった太い縄だった。
必要以上にきつく縛ってあるわけではなく、若干の遊びをつくって編み込まれている。それが服に見えたのだった。
自由のきかないその姿は、まるで網にかかったジュゴンみたいに、美しいマーメイドラインを魅せている。
彼女の表情は恍惚に染まっていた。縄から逃れた乳房は餅菓子を思わせ、局部でうごめくバイブレーターは唸り声を上げながら、ほぐれた膣内で空回りしている。
婦女の体液が水たまりになって、きつい匂いを放っている。私は眉をひそめた。
彼女がこうなってしまった経緯がまったくわからない。個人的な性癖なのか、それとも変質者の仕業なのか。その変質者が千石寛だとしたら、この次は私が狙われるかもしれない。
いかがわしい玩具で辱められていた梅澤由衣という女の子も、目の前で緊縛されているこの女の子も、あの交流サイトでノブナガという人物とつながっているのだとしたら、やはり私はここへ来るべきじゃなかった。
彼に裏切られ、女心をもてあそばれたという思いが、私の中に生まれつつあった。
私はマサムネを探すことも忘れ、部屋を出ようと後ろを振り返った。
するとガラストップのローテーブルがあり、空っぽのグラスにはストローが立っている。
それを見た途端、妙な胸騒ぎをおぼえた。ストローの端に朱色の口紅が付着していて、さらに歯形がついている。
ママ友の夏目由美子の顔が頭を過ぎった。
彼女にはストローを噛む癖があり、当然おなじような癖のある人はほかにもいるだろう。
だけどこれは間違いなく夏目由美子の仕業だと思った。あのとき、マサムネの毛から匂っていた香水は、夏目由美子が普段からつけている香水とおなじだった。
私が今日ここに来ていることなど彼女が知る由もなく、私にしたって彼女が来ているなんて思いもよらなかった。
夏目由美子がこの部屋に宿泊しているのだとしたら、この女の子とも接点があるはず。けれども私はこの子が誰だかわからない。
ひょっとしたら二人でスキー旅行に来たところに、不運にも千石寛に目をつけられ、彼に犯されてしまったのかもしれない。
だとしたら夏目由美子は今どこにいるのだろう。この子から事情を聞き出したいけれど、精神状態が危ない感じがする。
何度もアクメを迎えたのか、彼女の口からは唾液が垂れていて、さっきからうわごとばかりを呻いている。
「ノブナガさん……。あたし……もう……イク……」
彼女は確かにそう言った。そして身震いをくり返すほどに我を忘れ、止まない電動音の中、ぐったりと首を傾げた。
その一部始終に私は見入っていた。清潔な体が汚されていく様子があまりにも官能的で、それが夏目由美子の印象と重なる。
女が女に欲情する背徳なんて、知りたいとも思わなかった。その夏目由美子もおなじ目に遭っていないとも限らない。
私は誰かに助けを求めようと考えを巡らせた。そして思いついたのが庭朋美のご主人だった。彼なら何とかしてくれるだろう。
私が一階まで下りると、ちょうどそこに庭朋美があらわれ、私たちは合流した。
「三月さん。彼にはもう会えました?」
「それが、この建物のどこにいるのかわからなくて、困っていたところなんです」
「それは大変ですね」
「そこでお願いがあります」
「何でしょう?」
「彼がチェックインを済ませているのなら、宿泊客のリストを調べて、彼の部屋を教えてくれませんか?」
「いいですよ。こちらにカウンターがありますので」
冷静に行動する彼女を見て、私も少しだけ冷静になれた。
「そういえば、電気のほうはどうでした?」
「そのことなんですけど、切り替え作業がうまくいかなくて。なので電気が復旧するのを待つしかなさそうです」
「ご主人に頼むことはできないんですか?」
「それが、主人もスタッフもいないんです。スキー場のほうもリフトが止まっているはずだし、多分そっちの確認作業に行っているのかもしれません」
「そうですか……」
希望の糸が一つ断たれた気がした。彼女と二人だけで道を切り開くしかないだろう。