密かな遊戯-1
ワイルドガーデンズの朝の食堂は賑やかだった。というより、何やらざわめく声がすぐ近くで聞こえている。
私とおなじく窓際の席を陣取った女子大生らしき三人グループが、窓の外を指差して喋っている。
「絶対、何かいた。この目で見たんだから」
「女の子が鼻の穴をふくらませて興奮しないの」
「何かって、人?動物?」
「白っぽい感じの服を着てた。あれはたぶん雪女だよ。それか雪男」
「まったく、驚いて損したじゃん」
「めずらしく早起きしたと思ったら、まだ寝ぼけてるわけ?」
言い出しっぺの女の子の胸を、あとの二人が指で突っついていたずらしている。
そんな光景を見ていた私は、目を細めて微笑むこともなければ、不愉快になることもなかった。
なぜなら、女の子が指を指した方向は、たった今私が何かを見た場所と一致していたからだった。
冬の寒さからくるものとは違う、ぞくっとした寒気が背中をなぞっていた。何かがいることは確かだった。
彼からのメールですっかり舞い上がっていた私は、先ほどの寒気とともに尿意をもよおしてしまい、仕方なく食事を中座した。
そういえば庭朋美がトイレに入ってから十分以上が経過しているはずなのに、彼女はまだ出てこない。猫の後始末に手間取っているのかもしれない。
私はハンカチを手にトイレへ入り、室内を見渡した。いちばん奥の個室のドアが閉まっていたので、おそらくそこに庭朋美と三毛猫がいるのだと思った。
入り口に近い個室に私は入った。用を足し、緊張のほぐれた体を立て直そうとしたとき、どこからか水漏れのような音が聞こえてきた。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。みちゃ、みちゃ、みちゃ──。
不審に思って聞き耳を立ててみると、それは庭朋美がいる個室から聞こえてくるようだった。
水分の多い缶詰めの餌を猫が食べるとき、ちょうどこんな音がしていたような気がする。トイレで朝食というのも無理があるけど、私はそう決めつけた。
トイレ内自体はしんと静まり返っているわけではなく、食堂で談笑する声も微かに耳に届く。それに紛れるほど小さな声が、今確かに聞こえた。
庭朋美の様子がおかしいと私は思った。苦痛に歪んだ声なのか、泣き声なのか、とにかく普通じゃない雰囲気がここまでつたわってくる。
しかし、事態はさらに変化していった。明らかに彼女の声は、湿った音に反応して喘いでいる声に似ていた。
ここにいてはいけないと思った。
気がつくと私は元の席に座り、朝食のつづきにお腹を満たしていた。
外は相変わらずの雪。私が朝食を済ませた頃、ようやくトイレのドアが開いて庭朋美が出てきた。そして彼女の足元をすり抜けて、三毛猫も姿をあらわした。
何事もなかったような表情を見せてはいるけれど、あそこで何かあったのは間違いない。
私はもう一度トイレに入り、彼女が使っていた個室に潜入してみた。サニタリーボックスがあったので、何気に蓋を開けてみる。
そこに捨てられていたのは汚物ではなく、コーヒー用のミルクポーションの空容器だった。
どうしてこれがこんなところに捨てられているのか、私は想像してみた。
それは庭朋美の上品な容姿とはかけ離れた異常な性癖であり、行き過ぎた愛猫心の変わり果てた姿。
ペットの前で脚を広げて、クンニリングスによって信頼関係を深める淫らな行為。
彼女は自らの乳頭や女性器にミルクを垂らして、猫の舌に舐めまわされることに欲情していたのではないだろうか。
「どうかしましたか?」
聞き覚えのある声で我に返ると、そこに庭朋美の色白の顔があった。
「ああ、いいえ。ちょっと考え事を」
「そういえば、お連れの方はまだ来られてないみたいですね」
「さっき連絡があったんで、午後には着くと思います」
「そうですか。この分だと視界もかなり悪くなっているでしょうし、心配ですね」
言いながら彼女は、吹雪きはじめた外を険しく見つめた。
「食後の紅茶、ここへ置いておきますね」
私はかるく会釈をして、レモンが添えられたそれを一口いただいた。
「熱っ……」
この猫舌が恨めしい。
「今シーズンは主人の思惑が当たったみたいで、例年より賑わっています」
ほら、と庭朋美が指差したのは、食堂の隅にある掲示板だった。そこに女子旅プランの広告が貼ってある。
先ほど騒いでいた女子大生たちは、おそらくこれに釣られてやって来たにちがいない。
私はというと、彼に釣られた熱帯魚というところだろう。
「すぐそこにゲレンデがあるんです。上級者の方に言わせると、この辺りの雪質は独特らしくて、特に日の出を眺めながらの早朝スキーは格別だとか。まあ、こう見えても私は滑れませんけどね」
彼女は、はにかむ少女みたいに照れていた。
場所が場所なためか、知る人ぞ知る穴場になっているとのことで、集客を増やす目的で彼女のご主人が苦し紛れに企画したプランらしい。
女性客が集えば、相乗効果で男性客も増えるという計算があるのだろう。
「今日は平日だから日帰りの人がほとんどだし、別館のほうも空室があるはずです」
「別館があるんですか?」
「ええ。別館のスクエアガーデンズは主人の担当です。夕べ、送迎バスの中から見えませんでしたか?」
そう言われても、昨日は気持ちがかなり高揚していて、心ここにあらずだったし、記憶がない。
三十歳にもなって恋の病におかされるとは思ってもいなかった。