山荘にて-1
スキーシーズンを迎えた十二月の雪の降る朝、私は一人きりの時間を持て余していた。
夕べは夕べでなかなか寝つけず、本棚から一冊の洋書を手に取って、気紛れに眺めていた。
それは絵本だった。子ども向けの可愛らしい挿し絵や、アルファベットの文字を読んでいるうちに、いつの間にか眠っていたみたいだった。
そうして寝起きに時計を見たら、翌朝の七時五十分だったというわけになる。
白く曇った窓ガラスを指で拭うと、外の景色を滲ませている結露が水玉になって、つるりとすべり落ちた。
この部屋を暖めているのは石油ストーブで、まだ火を入れて間もない。
やかんが蒸気を吹き出しながら鳴いているので、私はマグカップにインスタントコーヒーを入れて、そこにお湯を注いだ。
こんなにも良い香りが漂っているのに、立ち上る湯気をかき分けるように息を吹きかけるばかりで、なかなか飲めないでいる猫舌の私。
ふたたび窓の外を窺うと、すぐそばの木々や遠くの山脈までもが真っ白な雪化粧に覆われ、見渡す限りの銀世界がどこまでも広がっていた。
『ワイルドガーデンズ』という名前の宿泊施設は、人目を避けるためにわざわざ雪深い場所を選んで建てられたような、厳しい環境の中にあった。
こういう風景をテレビで視たことがある。どこか遠くの外国だったような気がする。険しい山岳地帯、頑丈な山小屋、美しい高山植物、確かそんな映像だった。
私がこの土地を訪れたのは、ある人に会うためだった。大きな旅行バッグに二泊分ほどの荷物を支度して、ローカル線の無人駅に降り立ったのが昨日の午後。そこからさらに送迎バスに揺られて、ここに着く頃には雪がちらつきはじめていた。
そして今日、私よりも遅れてその人もここへ来ることになっている。
ラフな服装に着替え終えた私は、石油ストーブの火を落とし、一階にある食堂へと向かうことにした。どんな心境であれ、お腹は空く。
部屋をあとにして階段を下りると、誰もいない廊下をそのまま歩いた。
ふと自分の足元を追い越そうとしている影があったので、私は思わず足をすくめた。そこには一匹の三毛猫がいた。ここで飼われている猫だろうか。そういえば夕べは見かけなかった。
「君もお腹が空いたんだね」
愛くるしいその後ろ姿に声をかけてやると、三毛猫はくるりとこちらを振り返り、にゃあう、と返事をした。
そして三毛猫に案内されるかたちで、私は食堂のドアをくぐった。
「おはようございます」と女性スタッフの声。
「おはようございます。朝食をいただきたいんですけど」
「すぐにお持ちしますので、お好きな席へどうぞ。今日は一日中、雪みたいですよ」
清潔感のある制服にエプロン姿のスタッフの応対で、私の中で目覚めのスイッチが入った。
彼女とはすでに昨夜の夕食のときに打ち解けていて、他愛もない世間話に花を咲かせていたのを覚えている。
「うちのほうだとなかなか雪が降らないんで、遠くまで来た甲斐がありました」
自分で言ってみて、その台詞に違和感がないことに気づいた。
そう。私は遠くまで来た。私のことを誰も知らないこの場所で、密会を果たすために。
席を決めかねて食堂内を歩いていると、朝食を取りながら談笑する旅行客らの声がさっそく聞こえてきた。早朝組はすでに食後のコーヒーを飲んでいる。
スキーウェアに身を包んだ女性も何人かいる。長い髪にニット帽の癖がついていた。
私は窓側の席に腰を落ち着けて、テーブルの上に携帯電話を置いた。彼からメールが来ることになっている。
窓側といっても外は雪だし、朝日もそんなに差し込まない。窓ガラスに自分の姿が映って、何気に目と目が合う。
私って今、こんな表情してるんだ──。
下級生の女の子が、上級生の男の子に思いを寄せるときの、淡いときめき。桜色の頬、ふくらみはじめる唇、幼さが消えて潤う瞳。口中に甘酸っぱい味がよみがえる、そんなときだった。
新雪が降り積もる林の中に、動く人影が見えたような気がした。
早朝スキーの人だろうか。
そう思って反対側の窓から外の様子を窺うと、稼動中のゴンドラリフトの照明が点々と灯って見えている。
だとするとあちら側にコースがあって、こちら側には何もないことになる。
不審に思ってふたたび視線を戻すけれど、特に変わった様子もなく、相変わらずの粉雪が降っているだけだった。