声-1
島の朽ち果てた寺が柔らかな春の日差しに包まれていた。訪れる人もまれなこの寺の濡れ縁には老人が一人柱にもたれていた。その膝にはすっかり元の輝きを失った白いとはいえない灰色の毛に包まれた年老いた犬がその頭を載せていた。
十八年の間、老人と共にこの寺で暮らして来たこの白い犬に今、死が訪れようとしている。もう三日も前から何一つ食べようとしなくなっていた。せめてこの膝の上でおくってやろうと、暖かな春の日の下で、もう随分と長い間そうしていた。
朝一番、三年前に出された幸の失踪届の控えをもって役場の係りがここに来た。
「もうあれから三年経つのですね、はやいものだ」
その問いに老人はなにも応えなかった
「幸さんの戸籍抹消の知らせが県庁から届きましたので持ってきました」
返事一つしない老人に、この若い役場の職員はいかにも申し訳なさそうに一枚の紙切れを渡し、そそくさと帰っていった。
しばらくの間目を閉じ、動かずにいた老人はその紙切れを今は誰も経を上げることの無くなった如来の前に置き、そっと手を合わせた。久しぶりに堂内に線香の匂いが立ちこめていた。
それからずっと膝の上に老いた犬を抱き老人は身じろぎ一つせず時を過ごしている。
瞼一つあけようとしなかったこの老いた犬がかすかに体を震わせた。もう自分の力では顔の向きさえ変える力がなくなったはずのその犬が、必死にその顔をあげ寺の入り口の方を向こうとしていた。老人はこの犬がその顔を向けようとしている方へ目を移した。
老いた犬の耳に懐かしい声が聞こえた。自分にいつも語りかけてくれたあの優しい声が。
片時も離れることなくこの寺で共に暮らし、いつも自分だけに優しい声で話しかけてくれたその声が確かに聞こえる。あらん限りの力を振り絞りその声の方に顔を向け、もうかすかにしか見えなくなったその目をかっと見開いた。 老人と犬が向けた顔の向こうにまだ充分に若く美しい恵子がいた
「ただいま貴方、ゲン」
その夜ゲンは恵子の腕の中で息を引き取った。この寺で恵子と過ごした時間をなぞりながら今、恵子の声を聞き、そして眠るようにその生を閉じた。
村人は先ほど目の前を通りすぎ寺の方へ向かった白い帽子の女のことを噂した。まだ五十には届かない涼やかな、目元の美しい女に誰一人見覚えはなく、何処の縁者なのかとささやきあった。
次の日寺の墓守の老人を支えバスを待つ二人を遠くにし、そしてバスに乗り込む二人見ながら、ひょっとしたら女は三年前行方不明となった幸の娘であり、年老いた幸の連れ合いを迎えに来たのでは・・・とささやきあい、そして納得したようにうなずきあった。
二人が去った寺には幸の籍が抹消された男の戸籍謄本だけが残されていた。