高橋との出会い-5
麻理の妊娠を告げられたのは、そんな日々が数ヶ月続いたあとのことだった。
いつものように居酒屋に呼び出され、一杯目のビールを飲み終えた時、唐突に高橋が俺に言ったのだ。
「あの麻理っちゅう女───妊娠しよったで」
「……妊娠?」
一瞬自分のこととは結びつかず、俺はぼんやりとその言葉を繰り返した。
「川瀬くん。あんたの子やで」
「……は……まさか……」
麻理とセックスをしたのはたった一度きりのことだ。
俺は高橋の言葉がにわかには信じられず、反射的にそう答えた。
からかわれているのではないかと思ったのだ。
しかし高橋は真面目な表情を変えることなく、珍しく少し憤慨したような口調で言った。
「まさかなことあるかいな。避妊もせんとセックスしたら子供ぐらいできる。そんなもんきょうび小学生でも知ってるで」
いつになく険しい高橋の表情に俺は軽い違和感を感じた。
何かヤバいことになっているのかもしれないと思った。
「……本当なんですか」
「ほんまにきまっとるがな。しかもちょっと厄介なことになっとんねん」
「厄介なこと───?」
「あの子な、あのことを自分の親にしゃべってしもうたらしいんや」
「親……」
娘がそんな目にあった時、一般的な親というものがどういう反応をするもなのか、俺にはあまりうまくイメージ出来なかった。
「そうや。堕すにしても隠し通すのは無理やと諦めたんやろ」
信じ難いことだが、麻理と婚約者との間にはまだ肉体関係がなかったのだという。
だとすればお腹の子は俺以外ありえない。
「このままやと、裁判ざたになるかもしれん。───そうなったらあんたはブタ箱行き、事件を揉み消したワシも訴えられるかもしれん」
「……ブタ箱……」
高橋の言葉に、背筋がひやりと冷たくなった。
「ただ……今ならまだ事態を収束出来んことはない。婚約者にはまだ知られてへんらしいし、麻理の親もほんまのところは、娘を晒しもんにするより普通の幸せをつかんで欲しいと望んどるやろからな」
俺は頭の中に、見たこともない麻理の両親の姿を思い描いた。
「ただし……それ相応の……コレがいるで」
高橋は声をひそめて、胸の前で人差し指と親指で輪っかを作って見せた。
「金……ですか」
「これはただの妊娠と違う。強姦や。百万や二百万のはした金では話にならんことはわかるやろ」
働き始めてまだ三年目の俺に、そんな大金を用意することは不可能だ。
「……俺……そんなに金は……」
「そうやろな。……失礼ながら二十歳そこそこのあんたにそんだけのもんを用意すんのは無理や……」
「俺……俺はどうすれば……」
この時の俺は、無防備で、無知で、愚かな顔をしていただろうと思う。
そんな情けない俺を、高橋はどんな気持ちで眺めていたのだろう。
「わかった。……今回は───ワシがなんとかしたるわ」
「しかし───」
「金ならあんたより多少は融通がきく。それに、あんたが直接話すより、間にワシが入ったほうがええやろ」
「高橋さん……」
「心配せんでええ。あんたはワシの──息子、みたいなもんやさかいな」
高橋の顔に、いつもの優しい笑みが戻っていた。
「息子」という優しげで甘ったるい言葉が、俺の首を真綿のように柔らかく締め上げていた。
「……俺が出せるだけの金は全部出します……三年間貯めた貯金があります。本当に僅かですが……」
「まあ……それであんたの気が済むなら、好きなようにしたらええ。それより、これからは女をこます時に二度とあんなヘタをうたんことや。わかったな」
「──は、はい。申し訳ありませんでした」
まるで緩やかな洗脳にかかるように、俺は高橋に対して『絶対に従順でいなければならない』という感覚に陥り始めていた。
俺は再び全ての金を失った。
高橋の恩義に少しでも報いたいという気持ちもあった。
しかし、この時の俺を突き動かしていたのはむしろ、「麻理に普通の幸せを──」という高橋の言葉だったように思う。
麻理という女を幸せにすることで、俺は薄汚く汚れた自分自身を少しでも浄化出来るような気がしていたのだ。
俺はいつだって生まれ変わりたいと思っていた。
──今よりも、少しでもマシな何かに。
麻理の妊娠や裁判の話が全て嘘だったと俺が知ったのは、何年も後のことだった。