由乃と海-2
二人の姿が春風の町から消えたのは由乃の婚礼の前日であった。あまりに弱く、力を持たない二人にとってそうするしか方法がなかったのだが、強大な春風家の力は二人の想いをいとも簡単に打ち砕いた。春風の町から遠く離れた北国で隠れるようにひっそりと暮らしていた二人は由乃の中に芽吹いた新しい命と共に春風の町に連れ戻された。それぞれが両家に引き裂かれ、由乃は程無く女の子を産んだのであるが、由乃が我が子を胸に抱く事は一度たりとも許される事は無く、由乃の耳にわが子の産声だけを残し、何処へかと連れ去られたのである。
これら一連の事件は全て秘密裏の内に処理され両家以外に知られる事は一切無かった。
やがて春風家は広大な土地と屋敷だけを残し東京へと去ったのである。更に由乃は春風家当主の手で遠く異国の地、英国へと移された。由乃はかの地で夫をあてがわれ、以後幽閉に近い形で英国に暮らす事になる。由乃が家族とともに再び日本の地を踏むのはそれから五十年以上も経った今年の春のことであった。由乃は東京の家を処分し、春風の町に戻ってきたのである。
由乃が生んだ女の子は「椿」と名づけられ春風家の奉公人として長らく働いていた男の娘、「松」の子として育てられていたのであるが、全ての事実を知る春風家ゆかりの人間の手により松は椿とともに涼風家に迎えられる。海自身、そのことを椿に話す事は一切無かったのであるが、椿は松の死の床で全てを聞かされていた。以来四十年もの間、椿はその胸の内に自らの出生にまつわる秘密を抱き、四人の弟妹達の姉として涼風の家を支えてきたのである。
「松さんはあなたの成長する姿を亡くなるその年まで英国に住む私に知らせてくれたのです。だから私はあなたがどんな女の子に育っていったのか全て知っていました。松さんが亡くなり、あなたの成長の報が届かなくなってからというもの、一日でも早く日本に帰ってきたかったのですが、それが叶ったのは今年の春の事でした。お庭の手入れを頼んだのもあなたに会いたい一心からでした。そして今、やっとあなたをこの手で抱く事ができた。もう思い残す事は何一つありません」
「そんな事言わないで。やっと逢えたばかりなのに」
「もう長くは生きられない体だということは私が一番良く解っています。でも悔いはありません。あなたにも、そして海さんにも会えたのですから」
「父に？」
「ええ、海さんにも会うことができました。陸さんが始めて屋敷を訪れてくれたとき、目の前には確かに海さんがいたのです。陸さんの後姿、声、そして陸さんの使う鋏の音までが全て海さんそのものでした。陸さんが庭にいる間、私は陸さんから目を離すことが出来ないくらいそっくりでした」
「そうだったのですか。陸が言っていました。お屋敷の大奥様は何故か自分をじっと見つめて目を離さないって。お母様は陸に父の姿を重ねていたのですね」
「ええ、私の中の海さんの全てがそのままそっくり陸さんに在りました」
長くなってしまった話のせいか、由乃に疲れの影が濃くなっている。由乃はしばらくの間固く目を閉じていた。
「東京へ連れて行かれるその日、私は海さんが作ったお庭の一番いい場所に柘植の苗木を植えました。いつかきっとあなたをこの手で抱きしめ、そしてこの柘植の木でこしらえた櫛をあなたの髪に挿してやれる事を信じて」
「そうだったのですか。陸が盛んに不思議がっていました。親父は何であんな場所に柘植を植えたのだろうって。あの柘植を植えたのはお母さんだったのですね」
「陸さんはあの柘植のことを母に尋ねたくて仕方ないのです。先程陸さんが母を訪ねたときも、あの柘植の事を聞きたくて仕方が無い様子でした。陸さんはあの柘植をどう扱っていいのかすっかり悩んでいるみたいです。是非お姉さんの口からあの柘植の事を話してやってはいただけませんか。お願いします」
「そうね、それが陸の母親代わりとしての私の最後の仕事。後は翠さんにバトンタッチ、陸の事よろしくお願いしますね」
翠は力強く頷いた。
陸の大仕事を祝ったあの晩、酔いで薄れ行く意識の中に残ったあの悲痛な嗚咽の主が椿であった事が今はっきりと陸には理解できた。
五十五年もの長い間待ち望んだ母が直ぐそこにいる。そのことを想い椿は嗚咽していたのだ。そして今、目の前に在る柘植の木の謎も解けた。
今年の初雪が降った朝、由乃は屋敷の庭の見える奥座敷で静かに息を引き取った。由乃の傍らには椿の姿があった。あの日以来、椿は片時も由乃の傍から離れようとしなかった。まるで永かった五十五年の年月を一気に取り戻そうとするかのような椿であった。
死の床で由乃は椿の後ろにあの柘植の木を見ていた。
「お母さん、柘植の木は切らないことにしました。陸にもそう頼んでおきました。あの柘植の木はお母さんと父さんがここで出会い愛し合った証、そして私が生まれた大切な証人でもあるのですから。たとえ庭の形が崩れようと、父さんもきっとそう望んでいるはずです」
仏壇の中で優しく微笑む由乃の遺影に向かい椿はそう語りかけた。
今日も朝から雪が降っている。お屋敷の庭にはうっすらと雪が積もり庭の木々を優しく包んでいる。由乃が海を待ちわびたあの日、この庭は今日と同じ姿であったに違いない。
庭屋の憂鬱・・・完