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庭屋の憂鬱
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由乃と海-1

 椿の横に翠が並んで座っている。お互いの手は固く握られていた。

 由乃が静かに語りだした。

 激しく長かった戦争もようやく終わりを告げ世の中はやっと落ち着きを取り戻して来ていた。農地改革、借地開放、爵位返上とその多くを失った春風家が今嬉しい話題に包まれていた。春風家の一人娘由乃に婿養子を迎える話が持ち上がったのである。由乃十六歳、当時の由緒ある家としたら取り立てて若すぎるということの無い縁談話であった。

 春風家の箱入り娘、戦時下で育った由乃には男に対する知識も意識もまるで無かった。男といえば厳格な父親だけである。ただ由緒ある春風家の血を絶やさないための仕方ない婚礼であるという事だけがぼんやりと由乃の頭の中にあり、喜びも落胆も特には無かった。

 春風家の喧騒は年末の慌しさだけではなかった。屋敷のあちらこちらで婚礼に向けた普請が進められていた。屋敷の広大な庭でも大掛かりな庭替えが進められていた。

「なにやってんだ、そうじゃねえだろう。それじゃ松の顔が横向いちまう。ぐるっと回して松の顔をこっちに向けるんだ」

 その声を合図に三又(さんまた)で吊り上げられた松の大木がゆっくりと向きを変えていく。

 その声の主を二人の男が頼もしげに見つめていた。一人は春風家の当主でありもう一人はこの工事を請け負っている出入りの庭屋涼風園の親方「空(くう)」である。

「涼風にもいい跡取りが出来たものだ、これで親方も一安心だね」

「ヘイ、これもお殿様を始めご贔屓の皆さんのおかげです。あいつを兵隊に取られた時には涼風園も私一代で終わりかと覚悟しましたが、何とか五体満足で戻って来てくれました。元々素質があったのでしょう、今じゃ私も敵いません。あいつも来年は三十、お殿様にあやかって息子にも嫁をと考えております。早いとこ三代目を拵えて貰わないと」

「そうなったら親方も益々安心して楽隠居だな」

「ヘイ、その日が今から楽しみで」

 お茶の支度が整ったようである。空が海に声を掛けた。

「一休みしてお茶にでもしねえか」

 職人達に大声で指図をしていた若い男が二人の許にやって来た。



「どうだね、進み具合は」

「はい、どれもこれもが銘木揃いで何の苦労も無く仕事が捗ります。お嬢様のご婚礼に差し障りになる心配は全くありませんのでご安心下さい」

「そうかね、それは頼もしい。私からは何の注文も無いから思い切り腕を揮って見なさい」

「海、お殿様がそうおっしゃってくださるんだ。俺も注文は一切付けねえ、おめえの思う通り、思い切ってやってみな」

「有難うございます。存分にやらさせて頂きます」

 自信に満ちた声である。兵隊に取られていた数年間を一気に取り戻そうとする気迫が海の声には込められていた。

 そんな男たちのやり取りを由乃が座敷の奥でじっと聞いていた。自分の婚礼のための普請、庭替えでありながら、自分の意思とは全く無関係に進められていく事に苛立ちと反発を覚えていたのだ。ただ時折聞こえる自信に満ちた声が気になっていた。

「由乃、部屋の中ばかり篭っていないで庭に出てみないか、随分と形になってきたぞ」

 その声に応えるように縁側のガラス戸が静かに開いた。海が振り返るとそこには婚礼を間近に控えたとはとても思えない幼く無垢な少女が立っていた。

「どうだ由乃、いい庭だろう。涼風園の若大将の会心作だ。由乃の結婚式一番の引き出物になるぞ」

 春風の当主の満足げな声にも由乃は無反応であった。虚無が由乃の全身を覆っていた。

 海は由乃に一礼し仕事に戻った。そんな海の後姿を由乃の目が追う。刈り込んだ坊主頭、広くがっしりとしたその背中だけが目に焼きついた。

 その日を境に軽やかな鋏の音にじっと耳を澄ませる由乃の姿が縁側に見られるようになった。 あいも変わらず無感動な表情ではあったが、由乃の胸の内にある確かなものが生まれつつあった。



 暦が変わり婚礼の年が始まった。暮れから降り続いていた雪もやがて収まり白無垢の庭に柔らかな冬の陽が注ぐ。雪解けの滴が松の枝から一滴、又一滴と滴り落ちていた。
 そんな光景を由乃はじっと見つめていた。この雪の下には自分の婚礼を祝う新庭がある。それはほぼ完成していた。

「私みたい」

 由乃はまるで覚悟の無い白無垢の自分が涙を流しているような気がした。

 この雪が溶ければ最後の仕上げに涼風の職人達がやって来る。そしてあの人も。やがて庭が仕上がり城跡の桜が咲く頃、未だ見た事もない男との婚礼が執り行われる。その事には何の感慨も無かった。ただ無性に涼風園の海に逢いたかった。短く刈り込んだ頭、がっしりとした幅広の背中、それにもまして燃えるような力強いその目が忘れられなかった。庭を挟んでの海との出会い、それが今の由乃を虜にしていた。

 雪解けの音が消えると入れ替わるようにして鋏の音が響きだした。庭に涼風の職人達がやってきたのだ。待ちわびたあの声も聞こえる。三度鋏の音がするかしないうちに由乃は縁側のガラス戸を開けていた。

 海が振り向くとそこには由乃がいた。頬には大粒の涙が伝い落ちている。濡れ縁の檜の一枚板に漆黒の染みが出来た。

 雪が解けた日、二つの魂が一つに解けた。

 涙に負けた訳ではなかった。初めて出会ったあの日から由乃の存在がどうすることも出来ないほど大きくなっていくのを海もまた感じていた。由乃の涙は悲しい恋のきっかけにしか過ぎなかった。


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