時を越えてーわが子を胸に-1
前日の事である。
寄り添って由乃の病室から出て行く二人をじっと見つめる女性の姿があった。二人の姿が見えなくなるのを確かめるとその女性は病室の前に立った。ためらいは無かった。
ノブを回すとドアは音も無く開いた。整然と片付いた病室の隅に白いベッドが置かれている。そのベッドの上には小柄な老女が横たわっていた。雪のような白髪と顔に刻まれた深い皺が長い闘病を忍ばせていた。女性は静かにベッドに近づいていった。
「翠?」
由乃は静かに振り向きゆっくりと目を開けた。徐々に結ばれる焦点が翠では無い事を教えた。お互いに無言ではあるが濃密な時間が流れる。
二人には永かった五十五年の年月が一気に縮まるのを感じていた。
たまりかねて由乃が口を開いた。
「椿?椿だね」
其の声はかすかに震えていた。
椿は何もいえないでいた。ただその両の目からはとめどなく涙が流れ続ける。自分では止めようが無かった。
「お母さん」
そう言うのが精一杯であった。
由乃の目からも涙が溢れ続ける。
「貴方を捨てた私をお母さんと呼んでくれるの?」
「言わないで、お母さんが私を捨てたのではないという事は死んだ母さんから聞いて知っていました。だから捨てたなんて言わないで」
「松さんが?」
「母さん、陸を生んで直ぐに死んじゃったけれど、死ぬ間際に全部話してくれた。母さんは私を自分の子供として育ててくれたけど本当のお母さんが春風のお嬢様だって事を教えてくれて死んだの。お母さんが私を捨てたのではない事も話してくれた。だから今までお母さんを恨んだことは一度も無い」
骨の形がくっきりと浮き出た其の手で由乃は椿の手を握り締めた。
驚くほど冷たい手である。しかし椿には半世紀を経て初めて巡り合えた母の優しい温もりを感じる。その場に立ち続けることが出来ず椿は由乃の胸に崩れ落ちた。
生まれて直ぐに引き離されたわが子が今自分の胸に戻って来てくれた。由乃は二度と離すまい、二度と別れまい、そう思わせる強い力で椿を抱きしめた。
いつの間に帰って来ていたのか、椿の後ろには翠が立っていた。翠の目にも涙が溢れていた。椿は二人の話をずっと聞いていたのである。