仏の家-1
「和尚、何か変わったことはないかな。村の婆から聞いたけんど、夫婦もんがころがりこんできたんだって?」
「これこれ、人聞きの悪いこと言うものじゃないぞ。わしが無理言うて引き留めてしもうたんじゃ。この年じゃもう墓の掃除も出来んでな。本当に助かっておるわ」
和尚は週に一度下の村からあがってくる駐在にそう言うと、墓の掃除をしていた男と幸を呼んだ。
「この村の駐在じゃ。おまえさん達になにやら聞きたいことがあるそうじゃ」
「やあ、和尚の力になってもろうとるようですまんですのう。いつからこの寺においでてかの。いやいや調べる訳じゃないのじゃが、仕事柄一応聞いておかんといけんでな」
人の良さそうなその顔の端にかすかな疑惑の色を浮かべて男の顔をのぞき込んだ。
男は自分と現実社会とをつなぐ唯一の証明書とでも言うべき免許証を取り出し、仕事を無くし、家を無くした事情を簡単に説明した。
「後ろのおなごさんは?」
駐在は幸の顔をのぞき込みながらそう問いかけた。
旅の途中で知り合い、一緒にここまで旅をしていること、幸は言葉が不自由なことなどを少しの嘘を交えながら説明し終えると、男は幸に自分の戸籍謄本を持ってくるように促した。
駐在は幸の謄本を受け取ると、これもまた自分の手帳に書き写していた。
「しばらくここにいなさるかね。それならちゃんと住民票移しておいた方が いいですな」
駐在はそう言いながら男の免許証と幸の謄本を注意深く手帳に写し終えると、再び司直の目をして私と幸の顔をのぞき込んだ。
おそらく駐在所に帰ると二人の身元調べるであろうこの駐在に、さして不快感は抱かなかった。
「おお、そうじゃ、そうじゃ。おまえさん達が迷惑じゃ無かったら二人の住まいをこの寺に移したらいい。二人がそうしてくれたら儂は大助かりじゃ」
和尚の嬉しそうな声を聞きながらそれでもまだ得心のいかない顔をして、この駐在は寺を後にした。
男が次にこの駐在と顔を合わしたのは三日後のことである。聞くとはなしに、あの駐在の声が境内の方から聞こえてきた
「県警に二人の身元照会をしてみたんじゃが取り立てて問題はなさそうじゃ。二人に前科や面倒なことは何にも見あたらんかった。おなごの方は施設育ちで身よりはだれもおらんようじゃ。若い頃、謄本の住所の施設から出た後の記録はなんもない。その頃のことを知っている職員はもう施設にはだれもおらんということじゃった。何はともあれ、二人にこれといった前科(まえ)はみあたらなんだ」
「ほほほ、たとえ前科持ちでも儂にとっては仏さんじゃ。あの二人にはとんと助けてもらっているでな。近いうちにこの寺に住まいを移すように言うてみる」
男は二人に自分の姿を見られぬようそっとその場から離れた。墓地の中では幸と、そして「ゲン」と名付けられた白い子犬がまるで言葉を交わしているようにその顔を寄せあっていた。まだ寒い瀬戸内の冬のその日、男はこの寺に腰を落ち着ける決心をしたのである。
二人の住民票がこの寺に移った次の日から和尚の手配で村の大工達が裏の納屋を二人のささやかな住まいにと造り替え始めた。男が幸と出会って三月が過ぎた春の入り口の暖かな日だった。納屋は三日で二人の住まいとなった。