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悲しい深海魚
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U-3

 奇橋と言ってもいいようなループ状の橋のたもとの海峡を見下ろす丘の上で見事なつつじの大玉が咲き誇っている。私の好きな場所である。朝から色々な場所をめぐってドライブし、日が沈む頃ここにたどり着いた。忍が満足したかどうかは判らなかったが、夕日とつつじが発する朱の光に染まった忍の顔は穏やかであった。

「ありがとう、今日は楽しかった。またどっか行こうね」

「ああ、楽しかった。必ず行こう」

 上着のポケットに手を偲ばせると一握りぐらいのフェルトに包まれた小さな箱の感触がした。車から降りるときダッシュボードから取り出し、ポケットに忍ばせたものである。

 私が店長を勤める園芸店の大口の顧客である宝飾店のオーナーから買わされてしまったダイヤの指輪が入っている。独り者である私にそのオーナーは言葉巧みにその指輪を売りつけた。

「店長、いい人が見つかったらどうせ指輪がいるでしょう。だったらうちで買ってよ。払いは毎月の月賦でいいからさ」

 支払いはとっくに終わっていたが贈る相手が見つからないまま車のダッシュボードの中に放り込んであった。

「これ」

 ポケットの中の小箱を握り締め忍の目の前に差し出した

「なに?」

 小箱を受け取りふたを開ける忍が怪訝な顔をしていた。


 プロポーズするつもりでこの指輪を渡したわけではなかった。忍と私は風俗の女と馴染みの関係でしかない。忍との結婚など頭の隅にさえなかった。今にして思えば楽しい時間を共に過ごす事のできる相手へのお礼というぐらいの軽い気持ちしかなかったように思う。

 気性の激しい忍のことだ、“こんな安物なんかいらない”と言って突っ返されるのを覚悟した。

 忍はじっと指輪を見つめていた。私はそんな忍から目を離し、目の前に広がるつつじの群落と日の沈む海峡に見入っていた。

 パタンと蓋を閉じる音がした。忍に目を戻すと、忍は指輪の入った小箱を両の手で硬く握り締めていた。

「これ、私が貰ってもいいの?こんな商売(しごと)している女だよ」

 忍なりに指輪の意味を考えた結果の言葉であったのだろう。

「ありがとう、大切にするよ」

 無言の私に忍は今まで見せた事のないしおらしさで言った。

 すっかり暗くなった道を西に向かって車を走らせる。市街地を横切ると忍のマンションは直ぐである。川面にはホテルのネオンが映し出されていた。

「そのホテルに車を入れて」

 突然の忍の言葉に慌ててハンドルを切った。


 浴槽に湯を貯める音が止んだ

「先にはいってて、後から行くから」

 その声に促され湯に浸かる。今日一日の疲れが溶け出すようで心地よかった。

 洗い場へ立とうとした時忍が入って来た。店で散々見た忍の裸の姿である。しかし今日は何かが違った。店では自分の裸の姿を一切隠さなかった忍が今日はタオルで前を隠している。私の頭から足の爪の先までをそれこそ大切なものを洗うように時間をかけて丹念に洗う。そこには忍の仕事の欠片も見当たらなかった。私が忍の身体を洗うのも初めてである。いつもと違う忍の仕草は湯に浸かってからも変らなかった。ただじっと身体を寄せ静かに湯に浸かる忍であった

 先に風呂から上がりベッドに横たわって忍を待った。程なくバスタオルを身体に巻いて忍が浴室から出てきたが、直ぐにはベッドに入らない。何故か部屋の隅で足を抱き、じっと考え事をしている。何かを決心しているように見えた。

 五分ほどそうしていたが、何か吹っ切れたような様子でベッドに入って来た。

 店では先ず忍が私を奮い立たせるために奉仕する。しかし今日は逆であった。忍は私の腕枕で静かに目を閉じていた。

 私の身体を下から抱きしめる忍はまるで初々しい新妻のようであった。私の激しい動きをやわらかく受け止め、静かに腰を動かすだけである。まるで私とのこの時間を少しでも長く味わいたちとでも言うような動きであった。そこに性のプロの姿はまるでなかった。今までの時間に追われる関係から開放された交わりは朝まで続いた。

 「もう店にきたらだめだよ。逢いたくなったらポケベル鳴らして」
 
 そういい残して忍は車から降りた。




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