深海魚の秘める願い事-3
「――遅くなりました」
執務室に戻ると、アレシュは視線をチラリと向けたが、一言も口を聞かない。
エリアスが寵姫の件にはいつも中立を決め込んで加勢してくれないのに、不貞腐れているのだろう。
静まり返った部屋で、黙々と書類仕事の続きを開始する。
経理や市街の開発に警備など、各部門からの書類を確認し了承するものにはサインをし、不備があるものは戻す。
すでに何年もアレシュの補佐をしているエリアスは、一言も交わさずとも淡々と書類をさばき続け、部屋に響くのは時計の針音と紙のすれる音だけだ。
一時間も黙々とこなし続けた末、ついにアレシュのほうが我慢の限界を迎えた。
机に突っ伏して呻き、緋色の髪を両手でぐしゃぐしゃにする。
「なぁ、エリアス。俺にはカティヤしかいらないと、いっそ国中に布告するのはどうだ?」
「たいして効果は望めないと思われます。カティヤさまの魔力が低いのは、変わらない事実ですので」
容赦ない意見を率直に吐く側近に、アレシュが剣呑な視線を向けた。
「まさかお前まで、高位魔法使いから寵姫をとれなんて言わないだろうな?」
「必要とあらば申し上げますが、少なくとも今は、そのつもりはございません」
「安心しろ。一生そんな必要はない」
机に頬杖をつき、アレシュが溜め息をついた。
そのままもう片手で、一房だけ長い髪につけた黒と金の魔石をいじる。
すっかりクセになっている動作のまま、魔石と同じ色の瞳をふっと和ませた。
「欲しい手は掴めたから……それでもう十分だ」
幸せそうに満ち足りたアレシュの横顔を眺め、エリアスも口元をほころばせた。
執務室の窓から庭を見下ろせば、今度は逆に兵と談笑しているカティヤが見える。
この先、アレシュが絶対に寵姫を娶らないかまでは、エリアスには確約できない。
人の心など気紛れで移ろいやすいものだ。
どんなに期待されようが、ゴミ同然に捨てられた自身の経験から、嫌というほど思い知っている。
しかし、できれば二人には長いこと……それこそずっと仲むつまじく暮らして欲しい。
打算も切羽詰った事情もないけれど、エリアスは真摯に願ってしまう。
陸に上がった嘘だらけの深海魚が願う、ほんのひとかけらの小さな真実。
終