ROW and ROW-1
○○地区自治会の封筒がポストに入っていたのは二日前のことである。今日、早くもそのことで電話がきた。
「一度おいでになってください。きっと楽しんでいただけると思いますよ」
「はあ…」
くどい誘いではなかった。むしろ里村と名乗った役員の女はとてもやさしく、穏やかな口調で感じがよかった。
「いろいろな方がいらっしゃいますから、共通のご趣味とかお話とか、お友達ができるかもしれませんよ」
「趣味は特にありません。考えておきます」
少々つっけんどんに答えたものだが、里村は、
「島岡さん、まだお若いですものね。またご案内しますのでお気持ちが変わったらいつでもご連絡くださいね」
明るく温かな印象を残した。
敬老会の入会案内である。ついひと月前に六十五歳になったばかりであった。
(敬老会って齢じゃない…)
内心面白くなかった。案内に対してというより、齢を取るという如何ともし難い事実に当たり所がなくて腹が立った。
誰もが確実に歩んでいく老いへの道。還暦が近くなってきた頃からもやもやと立ち昇るような不快感が胸底に滞るようになった。それは焦りでもあり、後悔も含まれていたようだし、次々と喪われていく自分自身の崩壊を恐れていたのかもしれない。
どんなに足掻いても生きてきた道を逆行することはできない。当然のことを当然として受け止めようと前を向いてきたつもりだった。それなのに無常の時の流れに嘆息が絶えなかった。
「みんな同じ想いで齢を取っていくんじゃないかしら」
妻の智子がよく言っていた。
「これからの人生、のんびり生きていきましょうよ。時間はみんな同じに持ってるわ」
その通りなのだ。言われるまでもないことなのに、つい忘れてしまう。妻の言葉にはいつも嫌みのない説得力があった。しばらくしてまた同じ愚痴をこぼしても微笑んで聞いてくれた。おかげで少しずつ気持ちの切り替えが出来るようになった。
「旅行しよう。智子の行きたい所へ行こう」
「いいわね。どこにしようかしら。いっぱいあるのよ」
「いいよ。片っぱしから行こう」
(二人で楽しく過ごすんだ…)
心からそんな気持ちになっていった。
ところが、定年を迎え、ひと心地ついた頃、妻は急逝した。前兆もなく突然倒れ、くも膜下出血と診断されて二日後には息を引き取った。二年前のことである。
ふたたび苛立ちを感じる毎日になった。両親はすでに他界し、彼には子供がいなかった。七つ齢の離れた兄が故郷の能登にいるが、六年前に脳梗塞で倒れて寝たきりの状態である。直後に見舞いに行ってから会っていない。
一人暮らしが続いていた。妻がいなくなって初めて彼女の存在が掛け替えのない拠り所になっていたことがわかった。
智子は控えめで従順な女だった。中学三年の時のクラスメイトである。挨拶を交わす程度で話すこともなかったのが、委員会の集まり言葉を交わすようになり、家の方向が同じだったので連れ立って帰ることが増え、親しくなったのである。
長い黒髪、色白で細面、切れ長の澄んだ瞳が日本人形を思わせる大人しい少女だった。島岡は仄かな恋心を抱きながらも告白出来ずに卒業した。その後別々の高校に進学して会うこともなくなり、彼は東京の大学に進んだ。
熱い想いがあったにもかかわらず年賀状すら出さなかったのは純情だったのだと思う。離れ離れになった、それだけのことでもう片思いの恋は終わったと追いかけることなど考えもしなかった。
大学二年の七月の初め、実家の母親から、中学のクラス会の案内が届いていると連絡があった。八月のお盆休みに合わせた企画で『二十歳の再会』と書かれてあるという。
ーー返事、出しておこうか?
ーーいいよ、わからないから。
その時期に帰省するつもりではいたが、何となく気がすすまずそのままにした。
(智子…)
彼女のことは真っ先に浮かんだし、忘れたことはなかったが、今どうしているのか、まったく消息はわからない。
(もう結婚しているかもしれない…)
その頃の結婚は今と比べると早く、特に地方の女性は二十歳ともなればたいてい縁談の一つ二つはあったものである。まだ地元にいるのか知る由もなかったが、彼女の面影は彼の心にすでに思い出となって仕舞われていた。
ところが当日、実家でごろごろしていると智子が訪ねて来たのだった
「お久しぶりです。もしよかったら、クラス会、行きませんか?」
思いがけない再会に島岡は慌てた。
「お返事が来てないって幹事の宮田さんから聞いたから、どうかなって思って」
どぎまぎしながら智子がとても眩しかった。微笑みといい、仕草といい、制服姿の彼女が甦ってくる。だがそれ以上に大人の女性としての落ち着きと色香にうろたえた。
急に行ったら迷惑じゃないかと言うと、
「大丈夫。突然参加もOKですってよ。二十歳のみんなと会いましょうよ」
気持ちの温かさが伝ってきて彼は嬉しくなった。忘れたはずの熱情が滲むように胸に満ちてきた。
二次会の後、連れ立って帰る途中、島岡は揺れる想いに抗い切れず意を決して積年の愛を告白した。唐突なのはわかっていたが、次に会う切っ掛けも思いつかず、このまま別れたら機会を失ってしまうと思ったのだ。酒の勢いもあったかもしれない。