ROW and ROW-8
そんなある日の午後、突然理絵子が訪ねてきた。
「里村です…」
嬉しさとともに過日の醜態が頭を混乱させた。急いでベッドの『智子』を風呂場に隠した。
ドアを開けて胸をつかれたのは明らかにこれまでと印象が違っていたからである。
整えた髪、艶っぽい化粧、シックな装い、何より体全体から匂うような『女』が感じられた。
「先日は…」
理絵子はそれだけ言うと辺りを見回しながら言葉を切った。
「こちらこそ…」
その時、彼女から直感的に受けたものはなんだったのか。醸し出すように伝わってくる『性』の匂い。それは島岡の感覚的なものだったが、少なくともその眼差しに秘めた真っすぐな意思はたしかに見てとれた。
「どうぞ…」
彼は低い声で招じいれた。
テーブルを挟んで座ると、島岡はまず頭を深く下げて謝った。ただ非礼を詫びるのではなく、彼女への想いを含めた言葉になった。
「あんな恥ずかしいことを考えたのはあなたに会いたかったからです。情けないことです。こんなことを言ったら怒られると思いますが、体が不自由になっても、あなたに介護されるのならそれでもいいと、ご主人が羨ましくて…。嫉妬していたのかもしれません」
理絵子は俯いたまま黙って聞いていた。
「あなたの気持ちを踏みにじってしまったことは取り返しがつきません。あれからずっと気が滅入ってしまって…」
理絵子が何も言わないので、島岡が喋りつづけ、話が熱くなっていった。
「いい齢をしてと思うでしょうが、初めてあなたに会った時、胸がときめいて…恥ずかしいです…」
ようやく理絵子が顔を上げた。その目には温かさが感じられた。
「恥ずかしいこと、ないですよ。私こそ中途半端に失礼しちゃって。今日はお詫びに何かお手伝いと思ってきました」
ほんのり紅く染まった目元に色香が漂っている。
「夕飯も作りますよ」
時刻はもうすぐ四時になる。
「ご主人はいいんですか?」
理絵子はややぎこちない笑みを見せた。
「今日は、ショートステイなの。だから、夜もいいんです。いろいろ、します…」
言ってから、居たたまれない様子で立ち上がった。
「まず、お風呂のおそうじ。汚れてましたよ。きれいにしますからね」
「すみません…」
風呂に向かう理絵子を見て、はっとして呼び止めようとしたが遅かった。声が喉に絡んで言葉にならない。
(まずい…)
扉が開かれる音がした直後、
「ヒッ!」とひきつった声が響いて、同時に何かを取り落とす音が聞こえた。
島岡はかっと顔が熱くなって身を縮めた。人には様々な秘密があるだろうが、孤独な性具はもっとも知られたくないものであろう。それを、つい今しがた好意を仄めかした理絵子に見られてしまったのだ。それも全裸で陰毛まで貼りつけてある。
(これは、決定的だ…)
せっかく理解してもらったというのに…。これで何もかも終わりかもしれない。
しばらくすると水の流れとともにブラシを使う音が聞こえてきた。耳を澄ませていると蓋を外して湯船の栓を抜いたようである。
(そうじをしている…)
約束をした手前、それだけは済ませるつもりなのか。きっと言葉もないくらい呆れて、ちらちらと『智子』を見ていることだろう。
もう諦めるしかない。言い訳をしても意味がない。自分のような男には必要なものなのだ。女にはわかるまい。だが、開き直って正当化することはやめようと思った。そもそも理絵子に説明するなんて出来ないし、自分が哀れになる。
そうじは三十分ほどもかかった。水音が止んで扉が開いた。
「ゴミ袋はどこですか?」
意外にも明るい声がした。
「ああ、白いボックスの棚に」
島岡も合わせて答えた。
「あ、ありました。使いますよ」
気遣ってくれているのか、張りのある声なのでほっとした。彼は堪らなく理絵子が愛しくなった。
「排水口が詰まる寸前でしたよ」
理絵子の顔を見た時、このまま何も言わずに済まそうかと一瞬思った。彼女も大人だ。こういうものもあるんだと胸に納めたはずだ。恥部は見なかった。見せなかったことにしたほうがいいのではないかと考えたのである。だが思い直した。あれがショックを与えないはずはない。このまま別れるのならさらけ出してしまったほうがすっきりする。過った気持ちを打ち消して自ら口を開いた。
「里村さん。変な物見せちゃって、ごめんね」
理絵子はちょっとうつむいてからくすくす笑った。
「びっくりしちゃいましたよ。人間かと思いました」
「いや、お恥ずかしい限りで…」
「よく出来てるんですね」
明るい対応に助けられた。
「何と言っていいのか…」
「心の中で奥様が生きていらっしゃるんですね」
だから人形に想いを重ねて、というのであれば図星だが、島岡は否定した。この場で妻の話をしたくなかった。いま目の前にいるのは理絵子なのだ。
「人形はあくまでも人形です。あなたの前で言いにくいが、処理の道具でしかありません。男の性なんです。この齢になっても燻っているんです…」
肩を落としてうつむいた彼の後ろにいつのまにか理絵子が立っていた。そして肩に手が置かれ、振り向くと上気した顔が間近にあった。