ROW and ROW-4
どうかしていたのだと自分でも思う。
たった三十分ほど話をしただけなのに体が燻ってしまった。理絵子が帰ったあと、しばらく彼女の匂いが残っていた。香水の香りならいざ知らず、肌の匂いも感じると思ったのは明らかに錯覚であろう。が、そう思えてならなかった。彼女が履いたスリッパを嗅ぐとさらに想いが募って淫らな妄想と結びつく。そしていつの間にか様々な事実と憶測が身勝手に継ぎはぎされていき、自分を見失ってしまった。
理絵子の夫が倒れたのは七年前だという。それからは一人では思うように動けなくなった。おそらく体の機能も麻痺しているだろう。セックスが出来るはずはない。七年前といえば彼女は三十代か。肉体の成熟期に夫が突然不能になった。寂しいはずだ。誰かに抱かれたいと思っている。体の疼きは理屈ではない。きっとそうだ。だからと言って自ら行動に出る女はそうはいない。毎日夫の介護に追われるだけで何一つ愉しみもなく悶々としているのだ。
島岡はあれこれと並べ立てた末に作り話を考えて理絵子に電話をした。出先で足首を捻挫したと嘘をついたのである。
ーー病院には行ったんですか?
ーーいえ、なんとかタクシーで帰ってきたんですが、何かと不自由で…。
ーーとにかく、すぐ伺いますから。
ーー大丈夫ですから。
ーー軽くみてはいけませんよ。待っててくださいね。
ーーすみません。ドアは開けておきますから、入ってください。
島岡は右の足首に包帯を巻き付け、ベッドに横になったまま気を高ぶらせて理絵子を待った。さすがに良心の呵責が顔を出して迷いが揺らいだ。
(あんなに親切にしてくれたのに…)
しかし、
(何も体を奪おうというわけじゃない…)
ただ、理絵子に世話を焼いて貰いたかったのだ。話をしていると心が和む。欲をいえば、入浴の手助けをしてくれないだろうか。そう、背中を流してくれたらそれでいい。夫の話を聞いているうちにそのことばかりが頭にこびりついてしまっていた。
『お風呂入れます?お手伝いしましょうか?』
そう言ってくれないだろうか。捻挫と言ったのはそんな思惑があった。
理絵子は間もなく駆け付けてきた。
「大変でしたね。痛みはどうですか?」
「ええ、足をつくと、痛くて…」
「そう。炎症が治まるまでは痛むでしょうね。念のためお医者さんに行った方がいいですよ」
「いや、それは。骨折だったらこんなもんじゃないでしょうから」
「そうですか…。あのねーー」
理絵子が説明をし始めたのは訪問介護のことだった。介護認定を受けていないので実費になってしまうが、必要なら知り合いのケアマネージャーに相談してみるという。
「一度利用してみたらどうかしら」
「いや、いいんです。二、三日でよくなるだろうし、食事は出前でもとって何とかします」
慌てて断った。
「何とかやろうと思えば出来ないことではないので。…電話なんかしてお騒がせしました」
「いいんですよ。でも骨折じゃないのならよかったわ」
「来てくれて嬉しいですよ。元気が出ました」
「それならよかった」
理絵子は澄んだ瞳で微笑んだ。
「もし私に出来ることでしたらお手伝いしますから」
「ありがとう。…その時はお願いします…」
喉まで出かかって入浴のことは言えなかった。親身に気遣ってくれている気持ちが伝わってくる。
(いまは言えない…)
今、というより、面と向かって頼むのは難しい。
(明日、電話で言おう…)
玄関で靴を履く理絵子の後姿。尻といい、太ももといい、震いつきたくなる肉感であった。
翌日、迷いを振り切って電話をかけた。挨拶もそこそこに用件を切り出したのは、やり取りが長引けば機会を失してしまう気がしたからだった。
『手を貸してもらえませんか。一度でいいんです』……
理絵子の相槌が途切れて沈黙が流れた。明らかに驚いている。島岡はあたふたと言い訳をした。
ーー厚かましいことを言ってしまいました。すみません。少し我慢すればいいことなので聞かなかったことにしてください。
ーーいえ、ただ、私はヘルパーでもないですし、入浴となると危険も伴いますので、それで……。
ーーそうですよね。筋ちがいなことでした。専門の人を頼むほどでもないと思ってつい甘えてしまいました。ほんとに失礼なことを申し上げました。
島岡は一方的に話を締めくくると、理絵子が何か言いかけたのを遮って電話を切った。
脇の下からひんやりと汗が流れた。
(馬鹿なことをしてしまった…)
図々しい老人と思って聞き流してくれればいいのだが。……
(そうだ、俺は高齢者なのだ……)
都合のいい時にそんなことを考えている自分が情けなかった。