ROW ａｎｄ ROW-3
それから数日後のことである。
「突然すみません。里村です。近くに来たものですから、ちょっと御挨拶に伺いました」
インターホン越しのその声に憶えがあった。
（敬老会の…）
何か催しの誘いならそのまま断ろうかと思ったが、訪ねて来られて顔を見せないわけにもいかない。
ドアを開けるとにっこり笑った顔が覗いた。
「こんにちは。里村理絵子です」
丁寧に会釈をして訝しげな表情をみせた。
「あの、島岡泰男さんは…」
「私ですが…」
少し顔を引いた彼女は、
「失礼しました。あまりお若いので、ご本人とは思いませんでした」
「そんな、齢相応ですよ」
「いえ、ほんとにびっくりしました」
それが外交辞令ではないとしたらお互いに驚いたことになる。実は島岡も彼女の美しさに心を乱していたのである。
若くはない。たぶん四十代半ばというところだろう。整った目鼻立ちと潤いのある瞳が底知れない魅力を湛えている。しっとりとした肌の艶やかさは若い娘にはない醸し出される色気を滲みだしている。
案内のパンフレットを手渡しながら、理絵子は腕時計に目をやった。
「いろいろな集まりがありますから、見学も出来ます」
バッグを肩にかけ直し、帰る様子を見せた。
「あの、お忙しいですか？」
「一か所届け物がありますけど、急ぎませんが…」
「もし、お時間があったらお茶でもどうですか？もう少しお伺いしたいこともあるし…」
意外な顔を見せた理絵子はすぐに微笑んで応じた。興味を持ってくれたと思ったようで嬉しさが表情に溢れていた。
すんなり上がり込んだのはやはり島岡を老人と見ているからだろう。
彼が咄嗟に理絵子を引き留めたのは単純な想いからである。渇いた胸に久しぶりに女の潤いを感じて、もう少し浸っていたかったからだ。仄かに漂ってくる化粧品の香りを胸いっぱいに吸い込みたかったのである。
「お一人なのにきちんとされてますね」
部屋を見回して、
「まるで奥様がまだいらっしゃるみたい」
「何も手をつけていないだけです」
「亡くなられてどのくらいですか？」
「二年過ぎました。今年三回忌です」
「そうですか…」
大まかな情報は伝わっているらしい。
島岡は妻の病気のことなどをかいつまんで話した。
「もう気持ちの整理はつきましたよ。それにそうしなくてはいけない。これからは人生を楽しまなくちゃ」
「そうですよ。本当にお若いんですから。まだ働き盛りみたいです」
そして言葉を切ってから、
「主人と同じ齢とは思えないわ…」
「同じって…」
「ええ、島岡さんと同じ六十五歳です」
「それは、ずいぶん…」
言いかけたその訊き方で理絵子には意味がわかったようである。
「少し齢が離れています」
いくつとは言わなかったが、おそらく二十ほど違うように思えた。
「主人、寝たきりなんです」
自ら話し出したのは敬老会の手伝いをするようになった経緯を語ったからなのだが、島岡には日頃の労苦を呟いているように感じられた。
「訪問介護を厭がって、私じゃないとだめなんです」
入浴も理絵子が一人で行っているという。
「寝たきりといっても、手を貸せば何とか動けるんですけど、重いから大変です」
「お風呂は大変でしょうね。危ないし」
「甘えてるんです」
島岡を見て若いと言ったのは夫の現状との比較があったからなのだろう。
「主人が旅行に行きたいって言いだしたことがありまして、とても無理だと諦めていたんです。その時、たまたま知り合った人の紹介で敬老会の人たちが助けてくれて。まだ主人は六十五になっていなかったんです。それでも旅行会に参加させてくれて。一人じゃ出来ませんからね。それが切っ掛けで私もお手伝いするようになったんです」
島岡は行きがかり上、会の内容を一通り聞くことになったが、ほとんど耳に入っていなかった。話に頷きながら、襟元から覗く胸の膨らみにときめき、濡れた赤い唇に秘裂を連想したりしていた。
帰り際、理絵子は携帯の番号を記したメモを手渡し、
「何か困ったことがありましたらお電話ください。何でもいいんですよ。ご遠慮なくね」
もちろん深い意味などあるはずはない。だが島岡はその柔らかい笑顔に心が揺さぶられる想いだった。生身の女を身近に感じるのは久しぶりであった。