ROW ａｎｄ ROW-2
智子は俯いて歩きながら何も応えない。彼も考えた末のことではなかったので言葉は続かず、夜道には二人の足音だけが聴こえていた。
家の近くの街灯の下で智子が立ち止まって、目を瞠ってじっと島岡を見つめた。まるで彼の心を確かめるように。……
「ありがとう…」
そう言って視線を落とすと、言い淀む様子をみせてから、
「私、短大も出ていないのよ…」
言っている意味が分からなかった。
「あなたは大学生だし、家だって立派で…」
ようやく彼との『バランス』のことだと思い当たった。
まだ誰もが大学に行ける時代ではなかった。学力とともに、いや、それ以上に経済的な問題が大きな障壁となっていた。高校でさえクラスの半数ほどの進学率だったと思う。
智子は四人姉妹の三女で、家はそれほど裕福ではなかった。姉二人は中学を出て集団就職で大阪にいた。そのおかげで彼女は高校に進学できたのだった。後に知ったことである。だから短大など夢のまた夢だったのだ。
智子は彼の告白を受け、結婚のことを考え、学歴と互いの家の釣り合いまで気にしていたのである。その繊細さに胸が痛くなった。
昔ほどではないが、家、格式といった考え方は少なからず残っていた。彼の父親は県庁の上級官吏で地元では由緒ある家柄であった。
プロポーズしたのではない。……それが、やや飛躍した智子の受け止め方に戸惑いはあった。彼の気持ちからすれば、付き合う、といった前段階のつもりだったのだが、しかし女の側からすれば『二十歳』は結婚を意識すべき年齢であった。
卒業後、東京で就職した島岡は、その翌年の正月に正式に結婚を申し込んだ。結ばれたのはその夜のことだ。再会して三年間、二人が会ったのは夏休みと正月の数日間、あとは手紙のやり取りである。半年ぶりに会えば人目を忍んで抱き合い、貪るように口づけをして愛し合った。限界まで燃えて何度一つになろうと思ったことか。智子も拒むことはなかったと思う。だが彼は大切にしたかった。十五歳から想い続けて、少女から女へと成長した智子を、自分が知らなかった彼女の思春期の息吹が愛おしくて、二人が歩む道筋がはっきりするまで自制しようと決めていたのである。
智子は初めてだった。心は燃えていながら体は硬直して、すんなりとはいかなかった。やや強引に押し入る結果になった。苦痛に顔が歪み、それでも彼の名を呼んで縋ってくるのをだきしめて、島岡は深い感動を覚えたものだ。
結婚話は特に支障もなくまとまり、一年後に東京で世帯を持った。それから四十年余、波風も立てずにやってこられたのは温厚で包容力のある智子のおかげだと島岡は思っている。
島岡はこれまで二度、浮気をした。どちらも半年ほどで別れたが、後から思い返すと智子は知っていたように思う。むろん訊いたわけではないが、そんな気がするのだ。一度だけこんなことがあった。浮気が続いていたある夜、島岡が求めて押し開き、のしかかって突き始めた時、智子の目尻から涙が一筋流れ落ちた。
「どうした？」
智子は横を向くと顔を振り、
「初めての時のこと、思い出したの…」
そう言って悲しそうに微笑んだ。
（きっと自分の胸に納めたのだろう…）
彼女の死後、悲しい想いをさせた後悔が時に痛みとなって彼を苛むことがあった。
募る妻への愛しさに起因しているのか、ここ最近、衰えていた性欲が活性してきたのには複雑な想いがあった。
六十を過ぎても月に一、二度の交わりはあった。当然のことながら若い頃の漲りはなく、主に触れ合うことで幸福を感じるようなセックスであった。迸る放出感も薄れて、いつもとろりと洩れ出る鈍い感覚を残して終わってしまう。射精時の快感も全身を貫くことはない。それでも込み上げる想いが心に満ちて肌の温もりを愛した。
妻もそれなりに悦んでいたようだ。ただ、若い頃から慎み深いというのか、あまり乱れない女だった。行為も常に受け身で自分から求めてきたことはない。だからといってセックスが厭だったわけではなく、彼が望めば口に含んで濃密な舌技を施してくれたし、恥ずかしい要求にも応じて喘ぎを洩らしたりした。女が本当に感じているか、男には伝わってくるものである。
絶頂も知っていたはずだが、声を上げることはせず、喉の奥に呑み込むように口を固く閉じて体を収斂させるのだった。
「感じた？」
訊くと、ぷるぷる唇を震わせながら島岡にしがみついてきた。
子供が出来なかったことで互いに関係が塞いでぎくしゃくした時期もあった。言葉や感情がぶつかり合うことはなかったのだが、心の形が歪んだとでもいおうか。浮気に走ったのはそんな精神状態の時だった。本当に辛かったのは妻の方だったろう。
（すまない…）
昔を振り返り、島岡は胸を痛めつつ、頻繁にそそり立つ股間を持て余していた。
ある時、『智子』を見つけて昂奮した。風俗雑誌に載っていたラブドールの広告写真。その人形の面差しに『智子』を見たのである。
一つ一つ目鼻立ちを比べると似てはいないのだが、遠くを見つめるような眼差しと囁きが洩れてくるような唇。そして何より優しさを湛えた雰囲気が智子と重なったのだった。
早速カタログを取り寄せて驚き、ときめいた。そこに掲載されている数々の人形は彼の概念を超えていた。実に精巧な作りで生気さえ感じるほどの出来栄えであった。
（智子を買おう…）
写真と説明書きでは分からないこともある。ショールームがあるのだが、現物を確かめに行くのはためらわれた。
（写真でこれだけ心が奪われるのだ…）
実物を想像してあまりある。六十五万円という価格にも迷わず購入を決めてしまった。
（智子の代わりなのだ。高くはない…）
受注生産なので一か月ほどかかるという。待ち遠しいがそれがまた気を揉むようで楽しみであった。
（自分だけの『智子』が作られている…）
島岡は日に何度もカタログを眺めては写真に口づけをした。