アールネの少年 1-10
身が軽い。
兜で顔は分からないが、エイ自身とさほど変わらぬ体格だった。背丈は一人前だが、まだ幅が追いついていない少年の身ごなし。
目が合った。
……だからどう、というわけではなかった。
誰が相手であろうと変わらない、いつもの作業だ。このまま薙ぎ払えば、この兵士の動きは止まり、打ち合いも終わる。
相手の目など見たことがなかったのだ、と彼は不意に認識した。
なぜ、改めてそう思ったかわからない。
今に限らず、彼はいつでも闘う相手の目線はちゃんと捉えていた。
目線、つま先の向き、身体のこなし、何もかも観て次の動きを判断していたのだ。そうして闘ってきた。
だがそうやって目を身体器官にしか捉えない通常とは違っていた。その瞬間、その相手だけは、兵士という動く人形ではなく、生きて、意思の通ずる何かだった。
他の者とどこが違うだろう。
この相手はそう強くはない。ただ若くがむしゃらなだけだ。
今までに斬った中にも同じ年頃の者はいただろう。剣を交える相手として、老若男女など問うた試しはないのだ。
一連の思考が彼の脳裏を走ったのは、本当に刹那のことだった。そのために彼の動きに支障の出ることはなく、他者の目には彼の剣は何の躊躇もなくふるわれた。
刃が鎧に触れる。この勢いのまま振り抜けば、問題なく鎧ごと胴体を両断できるだろう……
そのときだった。
総毛立つ……というのだろうか。ちりりと皮膚の上を何か違和感が走り抜けた。
目に見えない“何か”が四肢を掴もうとしている。
正体などわからない。ただ、掴まれてはならないと、彼の五感が意識にも上らぬレベルで判断し、彼の身体を動かした。
「……っ」
傍目には、彼は弾かれるように地を蹴り、バランスも着地も気にとめぬ勢いで背後に飛び退っていた。
案の定着地に失敗し、無様にも背中で地面を滑る。
エイの手にかかる寸前だった兵士が、何が起こったのかと呆然と立ち尽くしていたが、彼はそれどころではなかった。
風が吹きつけるのにも似た、空気の明確な圧力が、再び彼の身体に触れたのだ。彼は慌てて跳ね起きると、転がるようにその場を逃れた。
追いかけてくる圧力を、彼はそうして何度かしのいだ。
だが、しまいにその“何か”は、逃げ回る彼に業を煮やしたようだった。
「う、わっ」
彼の無意識は危機を存分に伝えていた。それを避けなければならないとわかっていた。
しかし、空全体がのしかかってきたかのような広範囲の、目に見えぬ重量を避ける術は彼にはなかったのだ。
“それ”はエイを地に突き倒した。
巨大な岩塊の下敷きになったようなものだった。
「あ……ぐあぁ…っ」
身体が軋む。
何の比喩でもなく、骨がたわんで軋み音を立てている。
両腕が軽い破裂音を連鎖させながら平たく潰れていくのがわかる。
骨という骨、腱という腱が、指の先まで粉砕されていく。
ひたすら彼を押し伏せる一方向の力が、続けて脚を破壊し、胸を圧迫した。肋骨ごと砕き、内臓を押し潰す。
その力は彼を、骨片と血肉のつまった皮袋にでも変えるつもりでいた。鉄錆の味が鼻と喉をふさぎ、息が止まった。
全身に響き渡る、止むことのない衝撃。これは……
これは『痛み』だ。
幼い日から久しく感じることのなかった懐かしい感覚に、彼は溺れた。
自身と世界の境界を、かつてないほど明瞭に感じた。それでいてその隔てる壁は、弾け飛びそうに薄いのだ。
死を、死という言葉で覚悟する間はなかった。
死。
終わり。
言葉ではなく、ただその絶対的な実感の中で、彼はなぜか戸惑うほどの……安堵に、満たされた。強烈な安らぎ。
転げまわるような致死の苦痛は、彼の意識を塗りつぶして、彼のわずらわしがっていた何もかもを、明滅し消えていくただの信号に変えた。
そのまま消失しようとした彼の感覚に、不意に違うものが割り込んだ。
バササ…
鳥の羽ばたきの音だった。
赤く染まって行く視界の中心に、一羽の鳥が舞いこんだ。
森の影のように黒い。
力強く羽ばたく、羽根の大きな、美しい鳥。
『世継ぎのシェシウグル王子が肩にまがまがしい鴉をとまらせているところを見たものもいるのです』
エレヴ公子の声が脳裏によみがえる。
まともに聞いてもいなかったが、記憶の底には残っていたようだ。
だが、彼の言葉にはわずかに相違がある。
漆黒の鳥は、色だけは確かに鴉そのものだったが……似ても似つかぬ形をしていた。
鉤状に鋭くまがったくちばしと太い爪。
そして丸い黒ぐろとした瞳孔の周囲に浮き上がる、不思議な真紅の虹彩。
小柄ではあるが、その鳥は確かに猛禽の特徴を備えていた。
遠のいていく意識の底に、はっきりと通る声が響いた。
「アハト、殺すな」
意味はわからない。考えるいとまもなかった。
ぶつりと途切れるように、彼は意識を失ったのだ。
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