36 咎人の償い-2
――同時刻。
海辺の漁村から遠く離れたゼノ城にて、エリアスはアレシュと政務室にいた。
朝から山ほど処理した書類を確認して揃え、丁寧にしまう。
キリよく片付いたところで、ふと開いた窓へ視線が向いた。
政務室は城の二階にあり、賑やかなゼノの城下が一望できる。悪人もいれば善人もいる、さまざまな人が行き交う、南の太陽のごとく活気に満ちた城砦都市だ。
雲ひとつない昼下がり。先月の事件が遠い昔に思えるほど平和だった。
アレシュは約束どおり、政務の合間を縫ってはカティヤをつれ、ジェラッド王都を非公式に訪問している。
ナハトは団長の新たなパートナーとして立派に奮闘しており、竜騎士団には里から新人が入った。しかも十七歳の少女だ。竜姫に憧れていた彼女は、難関な入団試験を見事にパスしたらしい。
なかなか妹離れができなかったベルンも、このごろはアレシュと仲良く話している。
『妹の邪魔をする暇があったら、さっさと自分の嫁を捕まえろ!』と両親に叱られたそうだ。
目下のところ、騎士団をまとめるのが忙しく、恋人探しに熱中する気はないようだが、エリアスの見たところ、そう心配はいらないだろう。
新人の少女は、ベルンへ完全に恋しているようだし、とても相性のよさそうな二人だ。
真下の中庭に視線を移せば、武官服に着替えたカティヤが、槍を片手に兵たちと談笑している。
皆、何もかもを手に入れるわけにはいかなかった。
失っては新たに掴んで、ようやく手に入れた幸せな平穏だ。
「珍しくぼんやりして、どうかしたのか?」
アレシュに声をかけられ、エリアスは我に返る。
「いえ……平和だと思いまして」
「念押しするが、あんなバカな事は二度と言うなよ」
机に肘をついた魔眼王子は、口を尖らせる。
唐突な言葉に、エリアスは小首をかしげた。
「わたくしは何か、失言をいたしましたか?」
「カティヤが来たら自分はもう用済みだなんて。もう一度言ったら殴る」
「……はい」
しばらく目を丸くしてから、エリアスはようやく返事をした。
「長い付き合いなんだから、俺にはカティヤもエリアスも両方必要なくらい、わかってくれても良いだろう」
拗ねるアレシュに、エリアスは苦笑する。
最愛の嫁を手に入れたばかりの王子は、確かに欲張りだ。
「かしこまりました。ですが……私には本当の主がおりますので、その方の許す限りは、誠意を持ってお使えいたします」
初めて会った時と、同じセリフを口にする。
エリアスの造り手……ただ一人の真の主は、ツァイロンなのだから。
それでもアレシュの成長に、確かに一部は関われたのが嬉しい。
仕え始めた頃のアレシュは、魔眼の抑制も下手で感情も不安定な少年だった。しかし自らの力を制御しようと、辛抱強く訓練を続けた。
苦労も多かったが、凶暴な魔眼王子は苛烈な運命に耐え、立派な青年に成長してくれた。
「……エリアス、約束は覚えているな?」
ふと神妙な顔で念を押され、頷いた。
「はい。お暇を頂くときには、必ずお別れの言葉を告げてからにいたします」
胸に手を当てて誓うと、魔眼がようやく安心の色を取り戻した。
「それならいい。それで俺は、辞める許可なんか出してやらないから」
カティヤを一度失って以来、アレシュは置いていかれる事を極端に恐れる。
仕え始めてしばらくして、これを誓わされた。
『エリアスは、黙って急にいなくなりそうだからな』
そう言われ、ドキリとしたのを覚えている。
ここにいる価値がなくなるか、主の命が下れば、即座に姿を消すつもりだった。
今も、アレシュが必要と言ってくれるのは嬉しいが、どこか冷めた感情で受けていることも確かだ。
自分はあくまで代用品であり、取替えの効く消耗品。
かけがえない価値を得るなど、いつだって最初から期待していない。
全てに一線置き、結界のように薄膜を通して眺めている。だからこそ、必要であればどんな冷酷な事もできる。他者の幸せを羨むこともない。誰に飽きられようと平気だ。
そう、ミスカがしたように……。