別れの朝-1
朝目が醒めると、着替えを済ませた『はずき』が朝御飯を作って待っていた。
冷蔵庫にあった食材を器用に料理してあった。味もおいしかったので、それを告げた。
それに対して嬉しそうに頷いた後、私の顔が描きたいと言った。
『はずき』は色紙を出すと、鉛筆でさらさらと描いて行った。
透き通った目で見つめられる時、その視線が眩しく感じた。
慣れた調子で手を動かしながら、ある逸話を話し始めた。
リアル系の写実的な描き方をしていた大先輩の女性がいた。
その先輩がしてくれた話だが、10年ほど前にコンテストで優勝したことがある。
そのとき描いた絵の1枚を見せた。10才くらいの可愛い女の子の顔だ。
普通似顔絵は似顔絵師の手には残らない。客が持って行くからだ。
だがそれはコピーしたものだった。何故コピーして取っておいたのか?
その少女と母親が後からやって来て、1枚のスケッチを見せたのだそうだ。
葉書くらいに切った画用紙に鉛筆だけで描いた、その女の子の似顔絵だった。
つまり、先輩は『腕比べの挑戦』に遭ったというのだ。
店を出していない似顔絵師が、客を取っている似顔絵師に密かに挑戦して、同じモデルを描くことを言うのだそうだ。
分からないように描くには離れたところでこっそり描かなければならないから、かなりの腕を必要とする。
ちらちら見て描けばモデルに気づかれてしまうから、見る時間は最低限にして描く。
そういう『盗み描き』の技術を持っている人間だという。
その母娘も似顔絵を受け取って立ち去る時に、呼び止められたという。
ごく普通の男性で、自分も似顔絵師だがお嬢さんの顔を描いてみたので、よろしかったらどうぞと1枚のスケッチを渡したという。
母親も少女も無料で1枚余計に似顔絵を貰ったことを喜んでいて、それを素直に教えてくれただけらしい。
その後でお願いして少女の写真と2つの絵のコピーをとらせてもらったという。
その2つの絵を見せてもらったが、似顔絵師が見ればわかる違いがあったという。
少女は眉の濃い女の子だった。
先輩が色紙に描いた少女は眉の濃さを少し弱めてある。
その方が可愛いと判断したからだ。
だが男のスケッチでは眉は濃いままに描き、その子らしさを残したまま可愛らしく描いてあった。
先輩は『負けた』と思ったそうだ。
皮肉にもその年、彼女がコンテストで優勝した。
だが、もちろん手放しで喜ぶことはできなかった。
写真と2つの絵のコピーはずっと取っておいて、自分の戒めにしているそうだ。
「その絵を見たのですか?」
『はずき』は頷いた。
素人目には両方とも似ているが、男の方がその子の個性を守って描いていたと言う。
いくら可愛く描いても、個性を削って描いたのなら、その子を否定したことになるでしょう?
そこで話をやめて、できあがった似顔絵を見せてくれた。
彼女にしては最高の出来に近いものだった。多少美化しすぎたところもあったが。
そしてその絵と一緒に新しい色紙を私に手渡した。
「これは……何?」
お願いだから、今度はおじさんが私を描いてくれと言った。
私はじっと数秒間『はずき』を見つめた。
そして、それから何も言わず、鉛筆で彼女の顔を描いた。
描いたものを渡すと嬉しそうに言った。大事にしますと。
「どうしてわかったんだい?」
荷物を持って出て行こうとする『はずき』の背中に、そう問いかけた。
私に背を向けたまま彼女は言った。
お世話になったお礼に、娘さんの部屋の掃除をさせてもらった。
部屋の隅に小さなスケッチが落ちていた。
どうやら娘さんの顔らしい。部屋に飾ってあった写真と見比べるとすぐわかった。
そして振り返って言った。晴れやかな顔で……。
おじさんが……そのときの『腕比べの挑戦者』だったってことがわかったから。私も自分の戒めにする1枚が欲しかったんです。
それと、おじさんと私の思い出になる1枚が……と。
確かにそう言った。
そして、私に近づきキスをすると、素敵に笑って手を振りながら走り去った。
そう……私はその姿を見送りながら思い出した。
私は、一度もプロの似顔絵師になったことはない。
勤めているから趣味で描いていたのだ。
そして、勝手に『腕比べの挑戦』みたいなこともやっていたことがある。
それには似顔絵師の仕事に対する憧れがあったのかもしれない。
だが、妻が病気で倒れてから、絵筆を握ったことはない。
今久しぶりに絵を描いて、何故か胸が苦しくなって来た。
それは何故か? 息子の嫁を失ったからか? 違う。
私は気づいた。私の中に住む似顔絵師が、『はずき』を求めていたのだと。
共に語り合うことのできる同胞(はらから)として。
完