第6話-19
暗がりの中で、既に目蓋を閉じた圭輔の顔が間近にあり、英里の顔がかっと熱くなる。
「迷惑なんて、思ってないよ。むしろ、英里が嫌じゃないなら、ここに居て欲しい。親が居ない間、英里がずっと1人になる方が心配…」
圭輔は目を瞑ったままそう静かに告げる。
今は真夜中の3時過ぎで、さすがに眠いのか、その声は徐々に小さくなっていった。
その横顔を見つめながら、英里は小声でそっと呟いた。
「圭輔さんは、どうしてそんなに私に優しくしてくれるの…?」
「俺にとって、英里はもう他人じゃないから」
その言葉に、英里はふと、駅のホームで一人佇んでいた時に生じた虚無感を思い出した。
「…自分自身以外はみんな他人です。他人となんて、一生、分かり合えるはずない」
そう言い切ってしまった後、我ながら、本当にひねくれた物言いをするものだと、自嘲するように口角を上げて笑みを漏らした。
また、こんな子どもじみた発言をしてしまって、教師の彼は、きっと聞き分けのない生徒を諭すような紋切型の答えでも返してくるものだろうとてっきり思っていたが、
「俺は、英里と結婚したいから…」
「…え…?」
予想の斜め上をいく答えに、一瞬、英里は自分の聞き違いかと思い、疑問の声を漏らす。
「だから、他人だなんて思えない」
しかし、その後に続いた言葉は、どう考えても先程の発言を受けてのものだ。
寝ているのか寝ていないのか曖昧な状態だが、彼は確かに結婚したいと言わなかっただろうか。
緩やかに、そして、徐々に速度を上げて、英里の鼓動が高鳴る。
付き合って長い期間になるが、結婚だなんて、一度も考えた事がなかった。
でも、何故、今このタイミングでそれを言うのだろう。
彼はちっとも悪くはないが、そう思ってしまう。
(私は、結婚なんて…)
英里は堪らず圭輔の方から視線を外して、天井を見上げる。
生まれてこの方、結婚に憧れを抱いた事がなかった。
愛情のない夫婦だった両親を見て育ってきた自分に、まともな結婚なんてできると思えない。
圭輔の規則正しい寝息が隣から聞こえてくる。
思わず、英里は自分の顔を両手で覆った。
普通の女性は、愛しい男性から結婚したいなどと言われたら、舞い上がる程嬉しくなるはずだ。
少なくとも、今まで自分が目にしてきた、ドラマや小説などといった二次元世界の主人公達はそうだったと思う。
それなのに、どうして自分はこんなに苦い気持ちを抱いているのだろう。
もしかして、自分が思っている程、彼の事を愛していないのだろうか…?
そう思い至った途端、また吐き気に似た眩暈を催す。今までも、自分自身に強い嫌悪を感じた時によく起こっていた現象だった。こういう時は、体内に巣食っている獰猛な獣が暴れまわっているかのような苦痛を体の内部に味わう。感情が昂ぶって、仕舞いには涙まで溢れてきそうになり、目頭を押さえるが、既に我慢の限界だった。とめどなく涙が零れては頬を伝う。
(嫌だ、どうして私はこうなんだろう…)
あまりの不快感に、取り除けるはずがないとわかっていても胸を掻き毟りたくなる。
好きなのに、愛しくて堪らないのに、求められると恐れ慄いてしまう。
近付きたいのか、離れたいのか、わからない。
自分でも手に負えないアンビヴァレンスな感情に身を引き裂かれそうになる。
嗚咽を堪えながら、必死に激情を鎮めようと強く目を閉じた。
だが、胃が重く、頭も痛くて、すんなり眠れそうになかった。
夜明けが、もう近い。
様々な物音が微かに耳に響いて、英里はうっすらと瞳を開けた。
アルコールが強くないくせに、昨夜は調子にのって飲みすぎてしまったため、二日酔いが酷い。
痛む頭に響く、その機械音の発生源を探そうとすると、きっちりとスーツを着た圭輔が、ひげを剃っている姿が目に入る。
彼のそんな様子を見たのは初めてで、英里は何となくぼんやりと見つめていた。
「…うわっ、びっくりした。起きてるなら声掛けてくれればいいのに」
ようやく視線に気付いた彼は、そう大袈裟に言いながらも、彼女に笑顔を向ける。
寝不足のようで、若干眠そうな顔をしてはいるが、十分に爽やかな笑顔だった。
「あの、昨夜は迷惑掛けちゃって本当にすみません…」
腫れぼったい目蓋で、英里も何とか笑顔を作ろうとするが、上手く笑えていないのは鏡を見なくとも自分ではっきりとわかっていた。
「いいよ、気にしなくて。それより、大学行く前に一度風呂入った方がいいな…言いづらいけど、酒臭いから…英里、結構酒強いんだ?」
「あ、はい。お借りします…」
(酒臭いなんて言われる彼女、どうなんだろう…)
いや、むしろそんな事を言わなければならなかった彼の立場は…その発言にかなりショックを受けて項垂れた。
「ごめん、そろそろ行かないと。もうすぐ新学期始まるから、今日から準備で学校出ないとだめなんだ。部屋はそのままでいいから戸締りだけ頼むよ」
落ち込む彼女のフォローができず、若干心残りな表情だった圭輔も、腕に嵌めた時計を確認すると、慌てて玄関へと足を向ける。
「えっ、でも…」
「これ!」
急ぎ足だった圭輔は、振り向きざまに何か小さいものを英里の方に投げて渡した。
英里は辛うじてそれを、落とさないように手の平に包み込むようにして受け取った。
「やる。いつでもうちに来ていいから。それじゃあ、行ってくるな」
玄関のドアを開けた瞬間、一条の眩い朝日が隙間から差込み、圭輔の顔を照らす。
ドアの隙間が大きく開いていくにつれて陽の光に溶け込んでゆく彼の黒髪、穏やかな横顔、すっとスーツを着こなしている長躯の姿に、英里は目が眩みそうになった。
光の眩しさと、彼が出際に見せた満面の笑みが、まだ瞳に鮮明に焼き付いている。
握っていた手をそっと開くと、銀色の真新しい鍵がその中に納まっていた。
これをくれると、そしていつでもここに来ていいという事は…
(これって、もしかして合鍵…?)