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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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10-2

 下島君はスリーピースバンドで出演した。彼は独特の鼻にかかるような声をしていて、今関さんの声とは対局にあった。それでも下島君が歌った、ソニックスのなかではかなりポップな曲は、とても収まりが良かった。下島君も満足げに笑って「ありがとうございました。今関さんも、ありがとうございました」と礼を言った。彼らがしんがりをつとめたら良かったのに、そんな風に思わなくもない。それぐらい完成されていた。
 このライブにキリがいたら、彼女はどんな顔をするだろう。どんな風に思うだろう。自分の夫が汚されたと思うか? 自分の夫は幸せだと思うか? 後者だったらいいと思う。だが、彼女はここにはいない。もしかすると、この世にいないかも知れない。夫の後を追って、濃い霧の向こう側に歩いて行ってしまったのかも知れない。
 彼女が俺の家を訪れるのではないかと、淡い期待をしていた。このライブにも来て欲しかった。だから俺は毎日、玄関のドアにこのライブのビラを挟んでおいた。ライブの日程は知っていても、場所までは知らないキリに、場所と時間を知らせるために。しかしそのビラが動いた形跡があった日は一度もなく、もちろん誰かが持って行った形跡もなく、結局今朝も、昨晩差し込んだそのままの形で、ビラは残っていた。
「死んだのかな」
 バンド形式の演奏は音が大きいから、俺の声なんて掻き消されてしまう。だからこそ、わざとぼそっと呟いた。口に出してしまえば、現実を受け入れる準備ができそうだったからだ。

「今日はこんな素敵なイベントに誘ってもらえて感謝しています。本当にどうもありがとう、下島君」
 フロアから拍手が沸いた。顔見知りのファンは最前列で俺を見上げている。
「今日聴きにきて下さった皆さんも、寒い中どうもありがとう。俺はこのギター一本で歌いますので、ソニックスとは違う、今関さんが弾き語りしていた頃のバージョンになります。ソニックスファンの方、アルバム曲とは全然アレンジが違いますけど、ごめんなさい」
 クスクスと笑いが起こり、どこかから「なんでもいいよ!」と声が上がり、俺の頬が緩む。ストラップを掛け直し、一つ咳払いをした。
「ではいきます、濃霧の向こう」
 歓声と呼ぶには少し足りないぐらいの声と拍手とともに、イントロのコードを鳴らした。弾き語り時代を知らないソニックスのファンには、少し新鮮みがあるかもしれない「濃霧の向こう」を、俺は歌った。

 手を伸ばしてみるといい
 その向こうには見えない明日が
 舌を向けて走り出している
 手を伸ばしてみるといい
 霧は水となって君をまとい
 そこにあったはずの淡い白は 姿を消してしまう
 永遠に 永遠に

 転調を迎える直前、照明が切り替わった。ぱっと明るくなったフロアの一部にふと目をやると、ジャケットのファーに小さな顔を覆われた女性が、壁にもたれるように立っていた。
 それは見まごう事は無い、キリの姿だった。
 彼女は生きていた。俺が歌う、夫の曲を、腕組みしながら聴いている。
 夫に似た顔の、夫に似た声の男の、夫の曲を、聴いている。
 キリは何を思う? それでも夫の元へと向かうかい?
 俺が手を伸ばすとキリは、水になって消えてしまうのか?



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