投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

濃霧の向こう側に手を伸ばしての最初へ 濃霧の向こう側に手を伸ばして 17 濃霧の向こう側に手を伸ばして 19 濃霧の向こう側に手を伸ばしての最後へ

-3

「なぁ、病院はいつぐらいから通ってるの?」
 その「病院」が精神科なのか、心療内科なのか知らないが、きっとそのどちらかなのだろうという前提で訊ねた。
「三ヶ月ぐらい、四ヶ月ぐらい? 前からかな」
 アルミのパッケージから錠剤を押し出している。その度にテーブルに錠剤が転がる乾いた音が鳴る。病名を訊こうかどうか悩んだが、やめた。訊いた所で俺は何もしてやる事はできない。彼女の事は何も知らないのだ。それに、肝心な事はきっと、彼女は話さないだろう。そんな風に感じていた。
「ねぇ、武人はさ、すっごく寂しくなったりしない? 一人でいる時に何か、自分の中が空っぽで、何か考えようとしても何も浮かんで来なくて、誰も何も自分に近づいてきてくれないみたいな、そんな感じになった事、ない?」
「ないよ、そんな難しい状況」
 俺は苦笑しながらそう答えたが、薬をかき集めるキリの顔は大真面目だったから、俺も慌てて笑みを消す。
「キリはそういう事、あんの?」
「武人が仕事に行ってる時とか、武人が眠ってる時とか」
「俺かよ」
 我慢ならずにまた苦笑する。今度は彼女も少し笑った。片手を口に押し当てると、口腔内に錠剤がまき散るくぐもった音がする。喉が鳴り、薬が嚥下された事が分かる。俺は布団に入ったまま両手の平を枕にして天井を見つめていた。彼女が俺をまたいでベッドに乗ったので、上半身を起こして、電気の紐を引く。段階的に部屋の中は暗さを増し、オレンジ色になり、一瞬、雨に打たれるキリを思い出した。そして闇を作った。
「おやすみ」
 俺の言葉に「うん、おやすみ」と答え、寝返りをするようなもぞもぞとした音がする。寝心地が悪いのか寒いのか、なかなか落ち着かない。
 今日はいつもに増して冷えるな、そう思って俺は暗闇に慣れた目で押し入れまで歩いて行き、毛布を一枚取り出した。それをキリの布団の上から掛けてやる。キリがこちらに視線を向けるのが分かった。
「今日、何かやたら冷えるから掛けとけ」
 喉が鳴るみたいに小さな声で「うん」と返事をし、壁を向いている。俺は自分の布団に戻ると、寒さから身を守るために小さく丸まった。そして目を閉じた。
 しばらくして「ねぇ、起きてる?」とキリの声がする。俺は寒さでなかなか眠りにつけなくて「起きてるよ」と返事をすると、彼女はもぞもぞと動き、こちらを向いた。暗闇に慣れた目と目がかち合う。
「ねぇ、嫌なら嫌って言ってね」
「何が」
 冷気が入り込む肩の辺りに、ふんわりと布団を掛け直した時、彼女が口を開いた。
「一緒に、隣で寝て欲しい」
 俺は絶句し、暫く無音が続いた。きっと完全な無音ではなく、隣近所から何かしらの音がしていたのかも知れないけれど、それすら感じる隙がないぐらい、俺は何も言えなかった。
 それでも「嫌だ」という気持ちは微塵も沸かない。彼女がからっぽになって寂しくなるという難儀な時間が減ればいいと思ったし、俺が彼女に近づけば彼女はもっと色々な事を話してくれるかも知れないとも思った。俺は返事をしないまま枕を持って膝立ちになり、ベッドに近づいた。察した彼女は少し壁際にずれて、俺は少し暖まった布団に入り込んだ。
「ありがとう」
 俺は何も言わず、きっとキリには分からなかっただろうけれど、口元に笑みを湛えた。彼女は仰向けの俺に縋るみたいに腕を回す。その身体は、小刻みに震えている。
「寒い、の?」
俺の二の腕の辺りでぶんぶんと首を振っている。暫くその震えがおさまるのを待ったが、止まない。
「怖いとか? 俺の事」
 また首を振るのが分かる。俺は身体をキリの方に向けると、棒切れみたいに細くて折れそうな身体を抱き寄せる。
 キリは俺の胸の辺りに額を押し付けて、すすり泣きはじめた。忙しい女だ。俺にできる事は限られているから、できる限りの事をして彼女を安心させてやろうと模索する。
 彼女の首の辺りに手を回して腕枕の形をとり、更にきつく抱きしめる。
「匂いは、違うんだね」
 俺の胸に潰された彼女の声は確かにこう言った。匂いが違う。
「違う? 何と?」
 またぶんぶんと首を振って、話をうやむやにする。それで彼女が満足するのならいいだろう。しかし、「匂いは」違う。だったら何は違わないんだ。何は同じで何が違うのか。パズルのヒントがそこに隠されているような気がして、もう少しでそのヒントに手が届きそうな気がした。しかしヒントに手が届いた所で、パズルが解けるわけではないのだけれど。
 その体勢のまま、彼女は寝息を立て始めたので、俺は抱きしめる力を少し緩めてやった。腕枕なんて久しぶりで、寒い部屋の中で指先は凍えそうだったから、俺はスッと彼女の首から手を抜き出し、布団にしまった。それでも片腕は彼女を抱いたまま、眠りについた。俺と同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女は俺とは違う、女らしい香りがした。

 その日以降、布団は押し入れにしまう事になった。シングルサイズの、俺一人でも狭いぐらいのベッドで、二人で寝ていた方が、彼女は空虚な感情にとらわれずに済むと言う。


濃霧の向こう側に手を伸ばしての最初へ 濃霧の向こう側に手を伸ばして 17 濃霧の向こう側に手を伸ばして 19 濃霧の向こう側に手を伸ばしての最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前