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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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「それってもう、彼女だろ」
 先輩はそう言ってタバコをふかしている。
「一つ屋根の下で? 飯も作ってくれて? 一緒に寝て? 彼女っつーか嫁さんだよもうそれ」
 長く息を吐くと、遠くまで白い煙が届く。それが今度は空気清浄機に向かう。その様を見ながら俺は「そうですかねぇ」とぼんやり、言う。
「嫁さんと言えばあれだ、田崎さんの嫁さん、そろそろ生まれそうなんだってよ。何か、妊娠なんちゃら症とかで? 帝王切開になるんだと」
「なんちゃらって、そこが重要なのになんで覚えてないんですか」
 アハハ、と先輩は笑ってまたタバコを口に持って行く。
「俺の友達んとこも帝王切開だったんだけどさ、始めは結構傷が痛むみたいだし、痕も長い事消えないんだってよ。大変だよな」
「先輩んとこは子供、作る予定ないんですか?」
 無遠慮だと思いつつも訊ねると、先輩はタバコをくわえたまま、にやりと笑う。
「絶賛子づくり中だよ。でもま、そんなに簡単にできないな、子供なんて。あんなに避妊に必死になってたのがバカみたいだよ、ホント」
 俺には未知の世界で、子づくりする相手なんていない俺には、帝王切開なんていう言葉は存在しないに等しい単語だ。妊娠なんちゃら症もそうだ。
「桜井もあれだよ、音楽にばっかりかまけてないで、その嫁さんみたいな女の子、大事にしないと」
 はぁ、とほとんど溜め息に近い返事をする。果たして大事にする義務が俺にはあるのか? 疑問だ。俺の彼女になってもらった覚えはないし、もちろん嫁にする予定もない。キリだってそれを望んでいる訳ではないだろう。だったら俺はなぜ、彼女のためを思って、彼女の空虚を埋めてやったり、彼女の理解を超える行動を理解しよとつとめたりするのだろうか。
「桜井はその子の事、好きなんだろ?」
 俺は返答に困った。自分でも分からなかった。嫌いなはずはない。生理的に受け付けないのであれば、家に上げたりしない。それに、一緒に寝てくれと言われて隣に寝たり、抱きしめてやったり、慰めてやったりしない。
 思えば、キリは抱きついてはきたものの、抱きしめてくれなんて要望はなかったはずだ。あれは、俺がつけたオプションみたいなものだ。抱きしめたまま眠ったのも彼女の要望ではない。俺が、俺自身がしたくてした事だ。
「きっと、好きなんだと思います」
 タバコをくわえたまま口の端から白い煙を吐き出した先輩は、「大事にしろ、その子」と言った。
 先輩が吐き出したタバコの煙は、空気清浄機に吸い込まれ、そして透明になって姿を消した。
「はい、します」
 迷いのようなものもきっと、空気清浄機に持って行かれたのだろうと思う。俺は胸を張って先輩に返事ができた気がする。

 今夜も同じように、キリと一つのベッドに入り、電気を消す。彼女はいつものように、俺に縋り付いてくる。そして同じように俺は抱き寄せる。
「キリ」
「ん?」
 彼女は俺の胸の辺りで俺の顔を見上げる。
「キリは俺の事、好きなの?」
 キリは俺の胸に顔を埋め、「うん、とても好きだよ」と言い、そしてなぜかクスクスと笑った。俺はそれを聞いて、はぁーっと笑いを含んだ長い溜め息をついて、「俺もだ」と彼女の頭めがけて言葉を浴びせた。
 深海から浮上してくるみたいに俺の目の前にのぼってきたキリは、少しひげが伸びた俺の頬を撫でて、それからキスをした。角度を変えては何度も何度も、キスをした。
 そこからはもう、殆ど覚えていない。俺はきっと、結構前からキリの事が好きだったんだ。彼女の事を何も知らないから、好きだという気持ちを表に出せなかっただけで、キリの事は結局何も知らないままだけれど、知っている部分だけでも、もう十分で、既に彼女に惚れていたのだと気付く。
 殆ど覚えていない。ただ一つ、鮮明に目に焼き付いた光景は、彼女のへその下、縦に伸びる傷があった事だ。俺はそこにも口づけをしたから、覚えている。全てが愛おしく思えたから、傷にもキスをしたんだ。



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