ヴァイオリン弾きの幸せ-1
嵐は夜がふけるにつれ、激しさを増していく。
シリーナ王都のとある細路地。
訪れる信者もいない小さな教会の雨戸も、暴風雨に激しい音を鳴らしていた。
赤毛の神父は、ヴァイオリンを奏でるのを諦めた。
せっかくの夜想曲も、この凄まじい音が混じっては興ざめというものだ。
さりとて、悪魔の彼には睡眠も必要なく、ヴァイオリンをケースにしまい、のんびりと夜中の礼拝堂を掃除し始める。
「おとうさま」
奥の扉が開き、金髪の幼い少女がおずおずと顔を出した。
「アンジェラ、嵐が怖いのかい?」
寝巻きの養い子はコクンと頷く。
ほうきを壁に立てかけ、悪魔のヴァイオリン弾きは、少女の望む言葉を口にする。
「おいで。寝付くまで、そばにいてあげよう」
手を差し出すと、アンジェラは嬉しそうに駆け寄ってきた。
抱き上げ、奥の居住スペースへと移動する。
「ごめんなさい、おとうさま。お掃除の邪魔をしてしまって……」
「いいんだよ。アンジェラがよく眠れることのほうが大事だ」
アンジェラがヴァイオリン弾きに望むのは、優しく頼れる父親像。
ヴァイオリン弾きは、その通りに振る舞ってやる。いつでもアンジェラの身を案じ、進む道を指し示し、庇護してやる、理想的な養父。
相手が何を望むか、どんな言葉をかけて欲しがっているか、ヴァイオリン弾きは瞬時に見抜けた。そして彼らの心に忍び込み、魂を貪り喰うのだ。
好き好んでやっているわけではない。
ただ、産まれた時からそういう存在で、他に時を過ごす手立てもなく、誰かに望まれない、素の自分などとっくに無くしてしまったから、延々とルーチンワークを続けているだけだ。
アンジェラに対しても。
彼女を殺し屋に育て上げ、もっとも効果的な場面で、自分のしていた事が正義でもなんでもなかったと絶望させ、魂を喰ってやる。
この手は今まで、何度か使った。
信念を強く持っているヤツほど、それが覆ったとき、魂を黒く染める。自分は悪くないと認めなかったり、世の中の全てを憎んだり……。
最初から悪欲にまみれた魂より、それはなぜかとても美味だった。
こんな幼女から育てるのは初めてだが、それだけに味は期待できるだろう。
ベッドにアンジェラを寝かせ、枕もとの椅子に腰掛け手を握る。
雨戸に打ち付ける風雨の音は、さらに激しさを増している。
「……スラムにいた時は、こんな嵐でも外に一人でいるしかなくて……ここは外より、全然怖くないはずなのに……」
ポツリと、アンジェラが呟いた。
「一人でいるしかなかっただけで、平気だったわけではないだろう?今は僕がいるのだから、寂しければいつでもおいで」
ヴァイオリン弾きはもう片手を伸ばし、金髪を優しく撫でた。
「おとうさまが居てくれて、嬉しい」
目を細め、アンジェラが幸せそうに微笑む。
「ああ。アンジェラが幸せなら、僕も嬉しい」
極上の餌だ。順調に育つほど、嬉しいに決まっている。
アンジェラは安心したように目を瞑り、少しの間、室内には嵐の音だけが響いた。
「……おとうさま」
急に、パチリとアンジェラが目を明けた。瑠璃色の澄んだ瞳が、じっとヴァイオリン弾きをみつめる。
「ん?」
「私、本物の天使になって、悪い人をやっつけて、スラムに追いやられた子たちを、幸せにしたいの」
「ああ。とても立派だよ。アンジェラ」
「でも最近……」
罪を告白するように、しばし言いよどんでから、アンジェラはようやく続きを口にした。
「おとうさまを、一番幸せにしたいと思ってしまうの……さっきみたいに一人でいる時、とても寂しそうに見えるから……」
またしばらく、室内は風雨の音だけになった。
「……おやおや。そんな風に見えたかい?」
周囲に誰もいない時の不安定感。
誰の望むようにもなれる半面、誰かに望まれなければ、何になったらいいかもわからない焦燥感を言い当てられ、驚いた。
そして、それ以上に……
「アンジェラは優しいね。私の自慢の娘だ」
はるか昔から、理由もわからず行き続け、数え切れないほどの『役』を演じた。
誰しも、演じられた理想の相手に夢中になり自分の幸福に酔いしれ、ヴァイオリン弾きが幸せかどうかなど、気にかけた人間は一人もいなかった。
「でも、心配要らないよ。アンジェラが立派な天使になってくれれば、僕は嬉しいんだ」
かがみこみ、額にそっと口づけた。
「さぁ、おやすみ。ここにいるから」
「はい。おやすみなさい」