雫-3
十分に時を待ち、ある日の夜、僕はそっと家を出た。
書き置きの一つも残さず、家の者にも何も告げなかった。
件の友人にのみ日取りを告げると、月齢を見て納得したように頷いて送り出してくれた。
遠出経験の無い彼女には、真夜中に並んで歩いているだけでも楽しいものであったらしい。
夜が明けてから道々の家で休ませてもらう珍道中にも文句一つ言わず、とびきりに笑いながら、歓声をあげて歩いていた。
この道がどこに続いているか知らぬわけでもなかろうに、と思ったが、それこそが彼女なのだという気もした。
予定通り、夕刻に友人の親戚の家にたどり着いて一室を借り、ありがたく舟を借り受けた。
甘えるように僕の腕に取りすがり、かと思えば枕にしてすぐに寝息を立て始めた彼女を眺めながら、僕は今更のように実家での騒ぎを思った。
今頃は父も母も、血相を変えて方々に使いをやっているだろうか。
だがここがばれることはないだろう。
少なくとも、この世にいる間は。
ゆっくりと目を閉じる。
もう、俗世の全ては切り捨てることにした。
* * *
出かけますので、と声をかけ、路銀を全て部屋に置き去りにして家を出た。
「今日も降りますよ、雪」
と、家人が戸口から心配そうに声をかけてくれたが
「帽子がありますので」
とつまんだところ、笑ってくれたようだった。
もう、会うことは無いけれど。
家人の言う通り、雪はますます深くなり、何度もつばから雪を払い落とさなければならなかった。
小柄な彼女の身体を、つないだ片手で引き上げるようにしながら、船着き場を目指す。
雪をこぎ歩けば自然と息が荒くなるが、それでも彼女は文句一つ言わずに着いてきた。
「少し休むか? 疲れただろう?」
一度振り返って声をかければ、彼女は立ち止まって大きく息を吐いたが、ゆっくりと首を振った。
「今立ち止まったら、月においていかれてしまうような気がするの」
彼女が指差す先には、木々と雪雲にまぎれながらそれでもまだぼんやりと光る、満月間際の月の輪郭があった。
「理由は分からないけど、そんな気がして」
今度はくるりと来た道を振り返った。
後ろを続いているはずの足跡は、牡丹雪に覆われてもう直に見えなくところだった。
「ならば、行こうか。もう少し行けば、船に着くから」
頷いた彼女の手を引き、ぽけっとの中に引き入れた。
隠して持ち歩かねば、背後から追いかけてくる何かが、彼女だけをここにずっと引き止めてしまいそうな気がした。
そこからまた四半刻も歩いただろうか。
急に前を覆っていた木々が開け、船着き場が現れた。
雪は幾分か弱まり、代わりに風が吹き始めていた。
キィキィと淋しそうに鳴る小さな渡し舟の綱を引いて、薄い氷が流れる水の上に浮かべれば、真っ先に彼女が飛び乗ってバランスを崩して頭を打ち付けていた。
「ばかだな、こんな不安定な舟に飛び乗るだなんて」
頭をさする彼女に手を差し伸べれば、拗ねたように顔を背けられる。
そのままくるりと舳先を向いたまま押し黙ってしまった。
「まったく」
背後からそっと抱きすくめる。
髪に頬を寄せればこつんと頭を頭にくっつけてきた。
「痛かった?」
「うん」
「こうしてれば、直に治まるよ。大丈夫。そうしたら、じっと座っていておくれね。舟は僕が漕いであげるから」
「うん」
よし、と頭を撫でて櫂を手にとった。
すっと地面に立てて、何度か力の限り押し出そうとするが、不慣れな仕事は上手く行かない。
「ねえ」
もたもたと力を込め、悪戦苦闘するうちにどうにかコツが掴めてきた頃、舟の舳先から声が降ってきた。
「何?」
「しばらく、静かにしてても、いいかな」
「どうして?」
「景色を目に焼き付けておきたいの。思いを込めてものをじっと見るとね、目の奥に焼き付けられて、他人が見ても見えるようになるんですって」
「初めて聞いたな」
「昔近所に住んでた子が言ってたの。その子は、近所のおばちゃんから聞いたんだって」
「じゃあ、後で僕が目を見てあげるよ」
「うん、お願い。ああ、でも、ぼやけてるかも知れないけど」
彼女が服の袖で目元を拭っていたのには気付かなかったことにして、そっと舟を岸から放した。