安心院なじみの浅慮な挑発または球磨川禊の命知らずな性衝動-1
寒々しいフローリングの床に、セメント剥き出しの白い壁。
等間隔に並んだ机と椅子。前には教壇と一面の黒板。
窓の外には空が広がっているが、人の声や車の音、その他あるべき雑多なざわめきが、なぜか一切ない。
最前列の机についた状態で意識を手に入れた球磨川禊(くまがわ みそぎ)は、外の異様な静けさはともかくとしても、とりあえずはそこが、数年前まで通っていた中学校の教室であることを見とめた。
「おはよう。起きたかい、球磨川くん」
球磨川にかけられた声があった。そこへ注意をやると、常に視界にあったはずの教壇の上に、いつの間にかセーラー服の女性が一人、ふてぶてしい様子で座っている。
『……安心院さん』
彼女を見るなり球磨川は、全ての漢字を音読みにしてそう呼んだ。
そこにいたのは、悪平等(ノットイコール)の体現者であり一京のスキルを有する人外、安心院なじみ(あじむ ―)だった。
彼女が当たり前の顔をしてそこにいる。その異常に、球磨川は慣れたこととはいえ溜め息をつく。
異常というのはなにも、さきほどまでいなかったはずのところに突然現れたことだけではない。その程度のことなら、球磨川の現在の同級生にも出来る者が一人いる。
目の前の安心院なじみが、安心院なじみの意識を有し、安心院なじみとして話している。それ自体が異常なのだ。なにしろいまいるこの世界は、球磨川の見ている夢の中のはずなのだから。
どこにでも現れるスキル『腑罪証明(アリバイブロック)』──。なじみが好んで使う一京分の一のスキルの一つである。
「僕の貸した『手のひら孵し(ハンドレット・ガントレット)』の調子はどうだい? 大分奇抜な改造を施したみたいだねえ」
なじみは軽やかな動きで教壇から降りると、球磨川の前までやってきて言った。
「それにしても、だからって死にすぎだろう、きみは」
『安心院さんに会いに来たに決まっているじゃないか』
「わははは。笑わせてくれるね」
妙に台詞がかったカッコつけた口調の球磨川と、飄々とした態度を崩さないなじみ。二人の会話は場所の違和感を別にしても、そこかしこに不自然が滲み出ている。
それは二人の関係というより、寧ろ二人の正体に起因するものであるのだが、それはともかく──
『ところで、どうして僕は帰れないんだい?』
球磨川が疑問を口にした。
現実世界での安心院なじみは、存在自体がなかったことになっている上に、あらゆるプラスをマイナスに変換されたまま封印されているため、球磨川がなじみと相対するのは、球磨川が睡眠若しくは絶命したときに見るこの夢の世界の教室でだけに限られていた。
そして、球磨川禊の過負荷(マイナス)である『大嘘憑き(オールフィクション)』によってその絶命がなかったことになり、彼が生き返るか、もしくは目覚めるまでが、短い対話の時間となるのが常なのだが、今回はなぜか、球磨川の蘇生がいつまでたっても発生しないのだ。
「もちろん僕が『口区間(ドア・トゥ・ドア)』でひき止めているからさ」
『……』
なじみの返事を聞くなり、球磨川は口角を微かに上げ、へらへらと不気味な笑みを滲ませる。
『そ、そんな! じゃあ僕はもう……ここから出られないのかい!? そんなのあんまりだ! 外には僕を待っている仲間たちがいるんだよ!』
だが一転、急に表情を変えた球磨川は、あたかも外の仲間の安否を憂うヒーローのように、カッコをつけた身振りとともに全身でそう訴えた。
『……なーんてね』
実に態とらしく。
「相変わらずじゃないか、球磨川くん。もっとも、二次創作の小説だから、言葉に括弧つけているのはお互い様だけどね」
そんな球磨川の不気味な芝居調も飄々と笑って受け流し、なじみは数歩歩いて球磨川に背を向けた。
「まあ種明かしをすると、まだきみの身体にハブの毒が残っているからだよ。いま生き返っても、その毒をなかったことにする前にすぐ死んでしまう。長者原くんが抗生物質を用意しているみたいだから、しばらく待っていたほうがいいだろうね」
と、そこでなじみは、上半身だけをよじらせて球磨川のほうを見る。