13-2
一度濡れた教科書は、シワが取れないけれど、乾くまで触らずにおいたから中身には影響がなかった。
優斗の優しさの根源が、残酷な出来事にあったとは想像していなかった清香は、優斗だけは幸せであって欲しい、そう改めて思う。富山に考え直して欲しいと話をしてみようと考えていると、携帯が震えた。着信は、圭司からのものだった。
携帯を手にするも、通話ボタンを押すかどうか迷い、そのうち留守番電話に切り替わった。鼓動は強く胸を打ちつけ、留守番電話のアナウンスが聞こえてくる携帯電話は、あからさまに震えている。もう片方の指で、通話ボタンを押す。
「はい」
『清香』
「うん」
『今、家の前にいるんだけど、出て来れない?』
立ち上がり、カーテンの隙間から外を見ると、家の前に黒縁眼鏡を掛けた圭司が立っていた。
波を描く英語の教科書をじっと見て、意を決する。
「待ってて」
携帯を閉じてポケットにしまい、上着を羽織ると母親に「ちょっとすぐそこまで出てくるから」と声を掛ける。母親は背後で何か言っていたけれど、無視した。
私道を遮るポールに身を預け、圭司が立っていた。
「何」
平静を装い声を出したけれどそれは驚く程震えていて、胸の鼓動は耳にまで響いてくる。
「今日、ユウと何話してたの」
「圭司には関係ない」
視線は足元に落としたまま、震えが伝わらないようになるべく腹から声を出す。さっと巻いてきたマフラーを、もう一度首に巻き直す。
「やっぱり、ユウの事好きなんだろ」
清香の胸の中を怒りが去来した。優斗の気持ちを知らないくせに。
「圭司には関係ない」
「それは図星って事だよな」
苛立ちが頂点に達した清香は、マフラーの端をぎゅっと掴んで「あのねぇ」と口を開く。口の端が痙攣する。
「優斗の事は特別に思ってない。だけど私があんな状況になっても私の事を心配してくれたし声も掛けてくれた。自分も同じ目に遭うかも知れないのにね。だから好きだよ、優斗の事は。少なくとも圭司の事よりはね」
白い息とともに全てを吐き出した清香を、圭司は暫く無言で見つめ、それからスッと視線を外すと言った。
「謝ろうと思ってたよ、俺だって。何度か機会を伺ってた」
さっきよりも強い調子で清香は圭司に向かって言葉を吐き飛ばす。
「思ってたって行動に移さなかったでしょ。私がいじめの標的になっても知らんぷり。留美だって表では咲に同調しておきながら裏では謝りにきた。あんた達、何なの。言ってる事とやってる事の矛盾にも気付かないなんて、人として最低だよ」
俯いた圭司は眼鏡の位置を直し「そうだな、最低だな」と自分に言い聞かせるように呟く。そのまま口を閉ざしてしまった。苛ついた清香が感情を隠さず声を出す。
「で、何が言いたくて呼び出したの。そろそろ宿題やんないとヤバいんだけど」
圭司を見遣ると、彼は俯いたままで地面を何度か蹴った。白い息が、ふんわりと吐き出される。
「元に戻りたいと思った。でも無理だな、この感じじゃ」
トクン、と身体を揺らす程の鼓動が、胸を打つ。圭司の事が好きな自分は、まだ清香の中に存在している。しかしこれまで受けた仕打ちは許しがたいもので、好きだという気持ちすら覆い隠してしまうもので、清香はきっぱりと言った。
「無理」
自分が決断した決別の判断に戸惑いながらも、玄関に向かって歩いた。視界がぼやけるのは何故なのか。
「清香」
玄関の階段を上る足を、止める。
「悪かった。友達に戻ろう」
真っ直ぐな視線を跳ね返すように、清香は圭司の瞳を見つめた。
「優斗に謝って」
玄関に入り、扉を閉めると、真っ直ぐ自室へ向かった。一筋の涙は頬を伝い、それ以上出てくる事はなかった。これで、終わりだ。