第5話-8
「知り合い…?」
隣に座る彼が、心配そうに声を掛ける。
硬化した英里の態度と、どことなく瞳に剣呑な光を帯びている声を掛けた男の様子から、不穏な空気を察したようだ。
「えっと、とも、だち…」
英里は咄嗟にそう答えた。その直後、自分の失言に対する焦りが生じる。
仕事の帰りなのか、すっかり馴染んだスーツ姿の彼を友達でごまかそうだなんて無理がありすぎる。
たとえ、その言い訳で彼は誤魔化せたとしても、圭輔はどう思うだろう。
鋭い目付きで圭輔は英里達を見据える。もう既に敵愾心を隠してはいないようだった。
英里は、彼の苛烈な視線を到底受け止められず、俯き加減になる。
圭輔は、軽く嘆息する。またあの癖だ。
彼女は気まずくなってしまうと、いつも俯き、貝のように口を閉ざして黙りこんでしまう。
「え、友達…?」
一人、状況がまだ呑み込めていない彼が、英里と圭輔の顔を交互に見比べる。
この状況をどう打開すべきか、英里は必死に考えを巡らせるが、圭輔はそんな暇を与えてはくれなかった。
英里が弁明の言葉を発する前に、圭輔は踵を返してその場を立ち去ろうとする。
「あっ…!」
英里は思わず立ち上がりかけるが、隣に座っている彼を置いてはいけない。
だが、誤解されたまま圭輔と別れてしまっていいのか…
(いいはずない…!)
迷いながら、ようやく決意した英里は椅子から立ち上がる。
「ごめん、ちょっと……」
「あ、うん。じゃあ、また大学で…」
どう見ても浅からぬ関係のように見える二人の険悪そうな雰囲気を察してか、彼は特に問い詰める事なく、英里を解放する。
「あっ、お金、ここに……」
財布を出そうと、慌ててカバンの中を探り始めた英里に、
「いいよ、俺が払っとくから。今日付き合ってくれたお礼に」
「でも……」
「それよか、早く追いかけた方がいいんじゃない?」
敢えて何も問い質さず、彼はただ微笑んだ。
「…ほんとにごめんなさい…」
申し訳なさそうに顔を歪めて、英里は軽く頭を下げた後、席から離れた。
喫茶店を飛び出すが、既に彼の姿は見当たらず、呆然と立ち尽くす。
圭輔のあの表情を見れば火を見るより明らかだ。怒って、いた…。
突然の展開にすっかり惑乱していて、どうすればいいのかわからない。
どこに、どこに行ってしまったのだろう。
まさか、あんなに怒るなんて。
今までに経験した事がない状況に、不安感を煽られて、いつの間にか両目には涙が溢れ出す。
だからといって、ここにいても仕方がない。英里はあてもなく駆け出した。
涙目で通りを走る英里の姿に、周囲の通行人の好奇の目が寄せられるが、今の彼女にそんな事に構っている余裕などなかった。
息を弾ませて、必死に辺りを見回す。
(どうしよう…っ)
少し、息が上がってきて、英里の走る速度が徐々に緩んでいく。
その反面、心の中の絶望感がどんどん増幅してきて、押し拉がれそうだ。
もう諦めて、後でメールか電話で連絡をしようかと思った矢先、通りを曲がったところで彼らしき男性の後姿が彼女の目に飛び込んできた。
今度こそ見失わないように、慌てて駆け寄る。
―――圭輔は脇目もふらず、早足に通りを歩いていく。
皮肉な偶然にも程がある。
今日は模擬試験があったため、土曜でも特別に出勤していた、その帰り。
以前の電車での出来事といい、どうしてこんな様子を何度も見掛けてしまうのだろう。
しかも、英里はまた同じ男と一緒に居た。
自分が見掛けたのは2度だけだが、こうも重なると、それ以外にもあの2人は何度も親しく会っているのではないかと、嫌でも勘繰ってしまうのも無理はない。
ただ一緒に話しているだけならまだ我慢は出来た。
だが、触れられるのだけは見過ごせなかった。
彼女の髪に触れていい男は、自分だけなのに…
そんな思考が過った瞬間、ふと、彼は自嘲気味な笑みを浮かべる。
いい年した男が、こんなに子どもじみた独占欲を抱くなんて全くどうかしている。
そのまま早足で歩き続けていると、
「ま、待って…!」
切羽詰まった、縋るような声が耳を鋭く刺し、ようやく追いついた英里が彼の腕をぐっと強く掴んでいた。
「お願い、話を聞いて…」
ぽろぽろと大粒の涙を零す彼女の姿。
彼女の、こんなに幼い泣き顔を見たのは初めてだった。
通行人がじろじろと2人の様子を見つめてくる。
どう見ても男が女を泣かせているように周囲から見られて、さすがに居た堪れなくなった圭輔は、無言で英里の手を取った。
歩いているうちに、英里の涙も少し止まったようだ。
圭輔はどこに行くのか、一体何を言われるのか…戦々恐々としながら彼の後をついて行く。
得体の知れない恐怖に、足元が覚束ない。
人目につきにくい、繁華街から少し外れた場所まで着くと、圭輔は立ち止まって英里の方を振り向いた。
彼女は不安そうな表情を浮かべて圭輔の顔を見つめていたが、その弱々しい顔とは裏腹に、繋いだ手だけはしっかりと握り締めている。もう、絶対見失いたくない。
ようやく、彼が重い口を開いた。
「英里は、ただの友達とキスしたり……ヤッたりするんだな」
暗く、静かな声音にのせられた、彼のあまりにも衝撃的な台詞に、戦慄が走る。
英里は眉根を寄せて、反論するが、その声が哀れな位震えていた。
「ひどい、そんな事…!」
「だって、さっき俺の事友達だって言っただろ」
圭輔は酷薄な顔で、そう言い放つ。
英里が圭輔以外の男性に、決して体を許すはずなどないとわかっているだろうに、何て酷い事を言うのだろう。
彼女は口惜しさの余り口を噤んでいると、畳み掛けるような詰問が続く。
「あいつに、俺と付き合ってるって言うの、何か問題あった?」
刃で切りつけるような鋭い口調。
その声だけで、英里の心に無数の見えない傷を付ける。