暖かな氷の世界 * 流血表現があります-5
長い冬もようやく終り、僕は半年ぶりに王都へ戻った。
「……王妃もな、悪気があったわけではない」
言いにくそうに、王がもごもごと弁解した。
「お前にとって、あまり良い思い出のない場所だろうと……好意でしたのだと、泣いて反省しておった。許してやってくれんか?」
「……」
「老朽化も進んでおったし……まさか、あの書庫を褒美に欲しがるなど、思ってもみなかったらしい」
「……そうですか」
王宮で僕を待っていたのは、瓦礫にされてしまった書庫の残骸だった。
僕達が王都を発った直後、王妃の独断で強引に壊されたらしい。
いくら王妃といえ、王の許可もなくそこまで勝手な事はできないと、たかをくくっていたのが間違いだった。
あの書庫を壊したところで、王妃に利益など何もない。むしろ反感を買うだけ損だ。
だが、彼女にとっては損得よりも、自分の感情を満足させる方が、さらに優先事項だったのだろう。
「中にあった本は、新しい書庫を作ったら置くように、とってあるそうだ。
なんなら、新しい書庫はお前の好きに作るがいい」
「……ありがとうございます」
謁見室から飛び出し、保管されている本の置き場へ駆け込んだ。
わずかな望みをかけて、積み上げられた魔法書をかき回し、何度も『僕』を呼んだ。
瓦礫となった書庫の跡も、探し回った。
城中をかけまわり、あらゆる場所を探して探して……探したのに!!
―――凍えていく。
夏の日差しの下、僕の中の温度が、ぐんぐん下がっていく。
やがて夕刻になり、王宮で夏を祝う宴が開かれた。
夜会服を着せられ、着飾ったどうでもいい女たちに会釈をする。
ようやく隙を見て抜け出せたのは、もう夜も随分遅くなってからだった。
夏の夜空に冷たい月が輝いて、砕けた古い大理石と材木の破片に、無情な光を投げかけていた。
夜になれば、もしかしたら……と、思っていた。
『僕』を作った晩も、窓からこんな白い月光が差し込んでいた。
月光の精霊を使い作り上げたのだから、もしかしたら……と。
誰もいない瓦礫の中に、移動されそこねた本が一冊、残っていた。
取り上げて埃を払う。
「……」
『僕』は消えるとき、悲鳴をあげたのだろうか?
書庫が壊されただろう時、僕は何も聴こえず、何も感じなかった。
―――凍えていく。
僕の分身が消え去ったというのに、何の痛みも感じず、普通に過ごしていた。
―――凍えていく……。
「……はぁっ」
肺腑から出た息が、白くならないのが不思議だ。
こんなにも、世界は寒いのに。
「はぁっ……」
背後から、瓦礫を踏む足音が聞こえたのは、それとほぼ同時だった。
「ヘルマン……君って、ウロボロスみたいだ」
僕はゆっくりと、『王妃の息子』に振り返る。
「ウロボロス?」
「われとわが身を喰らう、万物の蛇だよ。君は知っていると思った」
「知っておりますよ。フリーデリヒ殿下。錬金術の本も一通りは読みました」
「ただのフリッツにしてよ。半分でも兄弟だし、歳も同じなんだから。
……ごめん。僕の母上が、君の大事な書庫を……」
(大事な、ねぇ……)
もし、僕が普通に育っていたら、この場で彼に殴りかかっていた?
何一つ得るものがないとしても、感情を満足させるのを優先して?
―――くだらない。
馬鹿馬鹿しくて笑いがこみ上げてくる。
『僕』は消えてもういない。
それは単純な事実。本に記された文字の羅列と同じだ。
いくら泣き喚いて怒ったところで、永遠に変わりなどしないのだから。
だから僕は、至極冷静に受け答えをする。
「この書庫は、僕の所有物ではありませんし、王妃様のおっしゃる通り、老朽化が進んでおりました。どうぞお気になさらず」
冷え切った指先を僅かに動かし、革表紙に刻印されたタイトルをなぞってみた。
挿絵も文も、全て覚えている。
孤独な老人が作った木彫り人形に、月の女神が命を吹き込む童話だった。
嘘つきだった人形は、紆余曲折の末、改心して老人の元へ戻り、念願だった人間になる。
……外の世界にごまんといる人間は、嘘つきばかりというのに。
どうかしていた。こんな本に感銘を受けただなんて。
どんなに命を持っているようにみえても、所詮は幻影……。
手にしているのも馬鹿馬鹿しくて、瓦礫に投げ捨てた。
身体の奥で、冷たい音が鳴り響く。
―――何かが、凍りついた。