迫る兎-9
「随分、遠くまで飛んだねェ。気持ちよかった?」
「え? はぁ、まぁ……」
二人で床を雑巾がけしている。その遠くまで飛んだ液体を拭き取る作業をしているのだ。
ヨウコにもその作業をさせるのは、何か後ろめたいような気持ちがある。
「でも、本当にしたいのは、こういう事じゃあないんだけどなァ……」
「え、それはどういう?」
「フフ、それは、リクオ君にボチボチ考えてもらおうかな?」
「あ、そういえば、俺の告白に対する答えを、まだもらってないんですけど?」
「ああ、そっか。うーん、どうしようかな……フフ、保留。それで、いいかな?」
「保留? 答えてもらえないんですか?」
「だって、まだリクオ君のこと、よくわかんないしィ。その代わり、保留期間中は、あたしはリクオ君以外の男と付き合ったりしないわ。それで、いい?」
「……分かりました」
「ありがと。じゃあね、目、瞑ってくれる?」
「また、ですか?」
俺は、ヨウコの言うとおりに、再び目を閉じる。
またもや、床に座り込む俺にヨウコの気配が近づいてくる。
俺の両の頬を、ヨウコのすべすべした手が挟んだ。リクオ君。そう、ヨウコが囁く。
ドキリとした。彼女のシャンプーか何かの甘い香りと息遣いを感じる。
あ、これは、もしかして……本当に、キスを……。途端に、緊張が走った。
頬の手に少し力が込められた。ヨウコの前髪が、俺の額に触れた、と思った瞬間――
ドンドンドン、ドンドンドン。
入り口の扉が盛んにノックされている。俺は思わず閉じていた目を開ける。
「会長、いるんですか? あれ、何で鍵かかってるんだろう? タムラ君?」
透明感のある澄んだ声は、書記のツキコの声だった。
「チェッ……」
俺の眼前のヨウコが、少しつまらなそうに舌打ちした。
ヨウコは一瞬俺の顔を見て、ペロリと舌を出すと、扉に向かって小走りに駆けた。
彼女の出した舌の色が、さっき見た彼女の色を思い出させる。
俺は頭を振って、今はそれを追い払おうとしていた。