9-1
翌日、久野家に出向き、心理学科だった矢部君に曽根ちゃんのDVの話をした。初めは素っ頓狂な声を上げて話を止めようとした曽根ちゃんも、矢部君がそっち方向の勉強をしていた事を知ると、おとなしくなった。
「その彼、アダルトチルドレン、かなぁ」
手近にあったメモ帳に奇麗な文字で「AC:アダルトチルドレン」と書いて曽根ちゃんに向ける。無言のままで曽根ちゃんは頷く。それは説明を求める物らしく、矢部君に視線を送っている。
「曽根山さんに見放されるのが怖いんだと思う。暴力を振るってる限りは自分に縛り付けておけると思ってるんだよ。そこはドメスティックバイオレンスってやつだね」
俺は甘いカフェオレを一口飲み、矢部君の説明に耳を傾ける。
「曽根山さんは彼が寂しそうにしてると手を差し伸べちゃうんだよね、きっと。彼にとって曽根山さんは唯一頼れる存在なんだろうね」
曽根ちゃんはぼそっと「アダルトチルドレン」と言い、「そうかも」と零す。
「ねぇ君枝ちゃん、これって生い立ちとかとも関係あるの?」
「うん、あるって言われてるけど。彼って家庭内暴力を受けたりしてたの?」
避けていた話題に近づいている事に気付く。俺の嫌な予感は当たるんだ。
「ううん、彼ね、親がいないの」
矢部君と智樹の目線が一瞬、俺に注がれた。俺はその話に触れずに曽根ちゃんのDVの話をしたのだから、俺が話題にしたがっていないという事を、きっとこの二人には分かってもらえるだろう。と信じているのだが。
「そっか。じゃぁ施設とか養父母のもとで、結構いい子に育ってたのかもね。愛して欲しいって、言える環境になかったんじゃないかな」
「いい子だったって口癖みたいに言ってた。ちゃんとしたところに就職して、自活するようになってから荒れるようになったみたい。私が会った時にはもう、立派な悪だった」
確かに、見るからに立派な悪だ。昨日蹴られた脚には大きな青痣ができている。まぁ曽根ちゃんの背中に比べたらかわいい物だが。
「私は専門家な訳じゃないから、本当に困ったら専門家に相談した方がいいよ。まぁ今は塁がついてるから、相手の男の人にきちんといやだって伝えて、愛してないって伝えて、分かってもらえなくてもずっとノーを突きつけ続けるのが方法かなぁ。危なくなったら警察に相談とか」
智樹が「塁、コンビニ付き合え」と突如言いだしたので「何で」と訊くと「何でも」とおよそ返事とは呼べない事を言って俺にダウンを投げ渡す。仕方なくダウンを着て智樹の後について家を出た。
外は雪でも振りそうな痛烈な冷え込みで、ダウンの襟元をぐっと閉めて首を縮めた。
「なぁ、お前、自分に親がいない事、曽根山さんに言ってないのか」
そんな話だろうと思ったのだ。ブーツの紐が解けている事に気付き、しゃがみながら話を続ける。
「言ってねぇよ。必要なかったし。親がいないって共通点が重要とも思えないし」
智樹は「まぁそうだな」と冷たい風に顔をしかめる。
「でも、もしそれを曽根山さんが知ってたらな、親がいなくたって塁みたいにまともに育つ奴だっているんだって思えれば、自分が手を差し伸べてあげなきゃ、なんていう風に思わなくなるんじゃねぇかなって」
俺は立ち上がると「コンビニ、こっちじゃねぇだろ」と話を逸らした。
智樹の言う事は確かに納得のいく物で、実は俺は曽根ちゃんに「かわいそう」と哀れみの目で見られたくないから、親がいない事を口にできなかったのかも知れないと思い知らされる。
「智樹は、俺に親がいない事、かわいそうだと思った事、あるか?」
「ない」
即答だな、と破顔すると、頭をぽかっと殴られる。
「だってお前、野球の試合の時なんか、おじさんがしょっちゅ観に来てただろ。学校に持ってくる弁当だっていつも手作りで、高校の時なんて羨ましかったぞ。俺あの頃から一人暮らしだったし」
そうか? と俺は首根っこを引っ掻いた。その話はとても照れくさいのだ。赤く染まりかけている顔を見られまいと俯く。コンビニの方向は分かるから俯いたまま歩みを進める。
「お前、中学の部活に入った頃、口数少なくて、他人を寄せ付けない感じがあって何だコイツって思ったけど、お前の家庭環境とか聞いて納得がいったよ。あれからお前がおじさん達に愛される努力をして、おじさん達は塁を愛する努力をしたんだなって」
「それ恥ずかしいからやめろ」
ついに俺は顔をあげられなくなり、話を遮った。智樹が「耳、つか顔、赤いぞ」と俺の横顔をちらりと見るのが目に入った。
コンビニに入ると、俺はコーラが飲みたいと言って一本買ってもらい、他に菓子を少し、買った。別に用事などなかったらしい。俺に話がしたかった、ただそれだけなのだろう。これは智樹流の愛情表現なのだと思うと、またもや照れくさい。
俺は本当に幸せな奴だと思う。勿論、親を亡くした事は最大の不幸だけれど、親に匹敵するぐらいの愛情を、親戚から、友人から受けている。だからこそ真っすぐに生きて来られたのだから。だけど俺は努力した。本当は無償の愛をくれるはずの両親がいなくなってしまったのだから、俺は努力して他人と結びつこうとした。勿論それは、暴力などという汚い手を使わずに、だ。
「はいよ、コーラ」
ペットボトルを投げ渡され、俺はそれを少し振ってフタを開け、炭酸を徐々に抜きながら帰った。
「お前、いいかげんそれ、やめろ。変だぞ」
「うまいよ? 微炭酸コーラ。ファーストフードの希釈コーラとは違うんだぞ」
二酸化炭素は見えない気体として、俺の後ろに流れて行った。