1-1
「もう、ダメかも知れないな。どこの銀行まわっても、無理です、貸せません、の一点張りだ」
峰山民生は食卓で頭を抱える。先に夕飯と風呂を済ませた子供達四人が、取っ組み合いを始めた。彼にしては堪えた方だが、それでも苛ついた民生は「うるせぇよ!」と食卓を叩き付け怒鳴りつけると、蜘蛛の子を散らすように子供が散乱して行く。妻の涼は子供達に目をやり、短く溜め息を吐く。できれば夫が機嫌を損ねていない時に言いたかった。そんな風に涼は思いながら、口を開いた。
「あのね、こんな時にアレなんだけど、五人目、できたみたいなの。どうしよう、堕した方がいいかな、家計のことを考えても」
薄汚れた作業着の袖に視線を落とし、民生は暫く考える。取引先の社員から聞いた、あの、話を。
「なあ、トルチル、知ってるか?」
温まった味噌汁を食卓に置きながら涼は「産科で聞いたけど」と言い、夫の顔を疑念の眼差しで見た。「まさか......」
「二十歳ならかなりの額だぜ? うちみたいな小さな工場を立て直すには釣り銭がくるぐらいだ。もううちには子供が四人もいる。少子化にも貢献してる。国のために役に立って、自分の生活も潤うのなら、こういう選択も、ありじゃないかなって思うんだ。子供には保険もかけてさ。どうかな」
明らかに浮かない顔の涼が、民生の目の前に腰をかけた。テレビではちょうど、トルムチルドレンの推進に関するCMが流れていた。
「二十歳。私達が結婚した歳だよ。これから社会に出て働いて、って時だよ。そこで人生が終わるなんて知ったら、この子、絶望するよ」
言いながら、まだ膨れてもいないお腹をさする。
「じゃあこのまま飯もろくに食えずに、子ども四人、高校まで行かせられるかもわからない、今の生活を続けんのか? それこそ絶望的だ。このままじゃ工場、潰れるのは間違いないぞ」
拳を硬く握って声を殺すように呻く民生に対し、涼は涙を浮かべた顔を見られないように気をつけながら、頭を縦に振る他無かった。
******
21年後
「ヒロ代返、頼む」
「またぁ?」
男の声で代返するのはなかなか難しいのだ。何をしてるんだか知らないが、講義のサボりグセがひどい。いつも光輝は、缶コーヒー一本で私を買収するのだ。
同じ学科で、ちょっと仲良くなったぐらいで代返係とは。しかし腹が立つが断れない。私は自由奔放な光輝の振る舞いに、一方的に惚れているのだ。
「そうだ、今回はスタバでコーヒー奢るからさぁ。講義終わった頃を見計らって俺、ここに戻ってくるから、帰らないで待っててよ」
それだけ言い残して講義室から堂々と去って行った。水色のシャツの背中に「ばーか」と投げてみるも、相手は何も反応せずに講義室のドアから消えた。
「まーた頼まれたの?」
光輝の名が呼ばれた際に私が低い声で返答をしたのを見て、隣に座った静香が呆れた顔で言う。私は苦笑しならが頷く。
「光輝君、何か商学部の、誰っつったかな、朝長さん? とかいう子としょっちゅう一緒にいるって、誰かが言ってたよ」
誰かが言ってた。静香の口からはよく出てくるフレーズだ。誰かが、というその肝心な「誰か」の名前は出さないのか、出て来ないのか。私には分からない。
光輝と朝長さんという女性、よく一緒にいるという事は、交際をしているんだろうか。講義が始まり、私は教授がホワイトボードに黒いペンでなにやら書きはじめたのを、顎をシャーペンのお尻で支えながらぼんやり見ていた。
丁度この時間、その「朝長さん」は講義を取ってないのかも知れない。それに合わせて光輝は講義を抜けているという事か。
高校時代まで、バスケットボール一辺倒で、恋愛という物を全く経験した事がない私は、部活の先輩に憧れを抱く事はあっても「好きだ」という感情を持った事がなかった。それが、大学に入り、同じ工学部の生命工学科で、同じ研究室に入った光輝に、特別な感情を持つようになった。
光輝はいつも自由に振る舞っていて、自分を着飾るような事はなくて、誰に対しても気軽に話し掛けるし、いつも光っている。「光輝」という名前をつけたご両親は、凄いと思う。